我が会津坂下町には2基の古墳が存在しています。
この2基は合わせて「亀ケ森・鎮守森古墳(かめがもり・ちんじゅもりこふん)」と呼ばれており、国の史跡に指定されています。
古墳がある場所は町の北部の集落内です。
2基の内「亀ケ森古墳」の方は「前方後円墳」で、全長127m・前方部の長さ60.2m・後円部の直径72mです。
その規模としては福島県では最大、東北地方では雷神山古墳(宮城県名取市)に次いで第2位とのことです。
古墳の頂上には観音堂(会津三十三観音参りの三十二番札所)と稲荷神社が祀られています。
亀ケ森古墳の南にある「鎮守森古墳」は「前方後方墳」で、全長55.9m・前方部の長さ26.2m ・後方部の長さ29mです。
鎮守森古墳は出土した遺物から亀ケ森古墳とほぼ同時代(4世紀後半)に造られたと考えられています。
この時代ってこの辺りはどんな様子でどんな人達が暮らしていたのでしょうか?・・・
この時代の歴史を詳しく知りたくなりました。
もしもこの世にタイムマシンなんて便利な乗り物(?)があったなら是非確かめに行ってみたいものです(^_-)-☆
GW明け後の1週間は公私共にかつてないほど多忙な毎日を送っていました。
そのせいか、体調は正直イマイチであまり元気が出ません。
でも、それなりにがんばってますYO~♪
p|  ̄∀ ̄ |q ファイトッ!!
三ノ倉高原で一面の菜の花を観て癒された後で「日中線記念館」に寄りました。
それは赤い三角の屋根がとても印象的で可愛らしいヨーロッパ風な建物でした。
日本国有鉄道日中線は昭和11年に喜多方駅から北西に向かい熱塩駅までの11.6kmの区間(喜多方ー会津村松ー上三宮ー会津加納ー熱塩)が着工され、昭和13年に営業用路線として開通しました。
その後熱塩駅の北にある日中温泉を通って山形県米沢市まで路線を延長する計画もありましたが、太平洋戦争開戦のため中止となってしまいました。
昭和49年まで走っていた蒸気機関車は10月31日が最後の定期運行となりました。
昭和59年には国鉄再建法施行により特定地方交通線に指定された日中線は廃止されました。
現役当時から荒廃が始まっていた終点の熱塩駅の駅舎はその後綺麗に整備され、日中線記念館として保存されることとなりました。
新宮熊野神社は喜多方市慶徳町新宮にあります。
この神社は源頼義・義家親子が天喜3年(1055年)「前九年の役」で陸奥征討に赴く際、武運を祈って紀州熊野から熊野堂村(現会津若松市河東町)に勧請創建したのが始まりと伝えられています。
その後「後三年の役」(1083年~1087年)で再びこの地を訪れた源義家は熊野神社を新宮の地に移すように命じました。
造営は応徳2年(1085年)に始まり、寛治3年(1089年)に完成遷座し現在に至っています。
この神社は本殿として本宮殿・新宮殿・那智殿の熊野三社を祀っています。
当初新宮の地には熊野新宮社のみが遷座・造営され、熊野本宮社と熊野那智社はそれぞれ別の地に遷座・造営されました。
後年この二社が新宮社に遷され、以後三社合わせて祀られるようになりました。
この本殿三棟は昭和42年に県指定重要文化財となっています。
新宮熊野神社の「長床」は昭和38年に国の重要文化財に指定されています。
昭和46年から49年まで足掛け4年の歳月をかけ、約1億4千万円の経費を費やし解体修理復元がなされました。
長床は拝殿として建てられたようですが、その建立年次は不明です。
解体調査によれば、形式・技法などから平安末期の建立と見られています。
建物の特徴として周りには壁も扉もなく四方が吹き抜けになっているため、内部に林立する太い柱が見通されます。
長床の規模(概略)としては以下の通りです。
★間口:27.273m ★奥行:12.12m ★柱間:3.03m(桁行9間・梁間4間)
★柱数:44本 ★軒高:4.3m ★棟高:11.25m
この新宮熊野神社のご神木の大イチョウは高さ30m・根本周り8.1mで樹齢は600年といわれ、喜多方市の天然記念物に指定されています。
葉が黄色く色づいた大イチョウや落葉した後の黄色い絨毯と長床とのコントラストはとても見ごたえのある素晴らしさです。
シーズン中には多くの参拝客・観光客・写真家がここを訪れます。
日曜日(16日)の午前中に「長床」へ行って来ました。
例年だとここの大イチョウの見頃は20日以降なんですが、今年は紅葉の始まりが例年より1週間以上早かったのです。
なので、予定を1週間早めて見に行きました。
大イチョウの葉はごく一部がまだ緑色のままでしたが、ほぼ全体が黄金色に染まっていました。
丁度いい見頃ではなかったかと思います。
時折吹く風に乗ってイチョウの葉がひらひらと舞い落ちていました。
コンデジでその瞬間をとらえようと何度か試みましたが、なかなかタイミングが合わなくて結局1枚も撮影出来ませんでした。
今回は大イチョウをいろんな方向・距離・角度から撮影してみました。
大イチョウ以外のものも撮ったのでまた写真の枚数が多くなりました。
もし時間に余裕がございましたら、是非ご覧になってください。
※新宮熊野神社の由来その他に関してはパンフレットの説明文から抜粋しました。
ふとした事がきっかけで、会津がその昔鋸の産地だったという歴史的事実を知りました。
簡単ではありますが、会津鋸の歴史を以下に記しておきます。
会津鋸の歴史の始まりは安土・桃山時代からとされています。
会津では藩主蒲生氏郷公の手によって大規模な築城や城下町作りが行われました。
そのために、当時鋸の一大産地だった京都伏見から優れた腕を持った鋸鍛冶を呼び寄せ、地元の鍛冶職人達にその技術を習得させたのです。
江戸時代の享保年間には、会津藩家老田中玄宰が大阪天王寺門前の鋸鍛冶中屋源太郎の高弟中屋重内や重五郎を招きました。
彼らは伐採用の横挽き鋸「天王寺鋸」を藩内に伝えました。
やがてそれが改良され、手曲がり鋸と呼ばれる会津独特の「会津天王子鋸」として普及して行きました。
それ以来、会津の鋸鍛冶の全てが屋号を中屋と名乗るようになったとのことです。
明治から昭和30年代にかけては、窓鋸と呼ばれる刃渡り二尺前後の大型鋸がたくさん生産されるようになりました。
さらに、木挽きがしやすいように改良を加えられた「会津天王寺窓鋸」は北海道の開拓などに多く使用されました。
この時代は会津若松市内でも多いときで数十軒の鋸鍛冶が存在していました。
昭和30年代以降はチェーンソーの普及とか林業の衰退などで鋸の需要が減少した上、大量生産された安価な鋸が出回るようになったため鋸鍛冶が次々と廃業していきました。
しかし、会津鋸鍛冶の長い歴史は今も受け継がれています。
平成17年に三代目中屋市右衛門(川村健一さん)が廃業した後、現存の会津鋸鍛冶は三代目中屋伝左衛門(五十嵐征一さん・昭和19年生まれ)ただ一人だけになってしまっていますが、彼は残された僅かな材料で鋸鍛冶を続けています。
一時は廃業も考えたそうですが、全国からメールなどで声援を受け「鋸鍛冶屋の人生が終っても、目立て屋として続けて行けることで納得している。」とのことです。
※この記事の作成は「(有)スズキ金物店」様のHPと「中屋伝左衛門鋸こうば」様のHPを参考にいたしました。
昨日はお昼前から耶麻郡磐梯町までのドライブを楽しんできました。
まず向かった先は史跡慧日寺(えにちじ)跡でした。
慧日寺は今からおよそ1200年前の平安時代初めに高僧徳一によって霊峰磐梯山を望む山麓に開創された寺院です。
昨年の4月に「金堂」が、そして昨年末には「中門」がそれぞれ復元されたばかりです。(中門の公開が開始されたのは今年4月から)
まず金堂・中門の手前にある「磐梯山慧日寺資料館」を見学しました。
資料館では金堂復元の開始から完成までを記録したビデオを上映していました。
(※金堂についての詳細は昨年のブログ記事『復元「慧日寺金堂」』をご参照ください。)
次に中門と金堂を見てから史跡巡り(時間の都合で一部のみ)の散策をしました。
「徳一廟」は開祖徳一の墓と伝えられる五重の石塔ですが、建立は平安時代とされています。
写真は撮ってないですが、徳一廟の近くには徳一の後継者今与の供養塔がありました。
「薬師堂」は明治32年に再建されたものだそうです。
「仁王門」は昭和26年にここへ移築されたもので、江戸中期の仁王像が安置されています。
「不動院龍宝寺不動堂」はかつての磐梯吾妻修験の祈祷所で、入母屋づくりになっています。
この近くには慧日寺の宗徒乗丹坊の供養塔がありましたが、これも残念な事に写真に撮っていませんでした。
最後に旧本坊(現在の恵日寺)とその山門も見て回りました。
江戸中期の建立とされ、近世の慧日寺を伝える数少ない建造物のひとつだそうです。
さてと・・・歩き回ってお腹が空きました。
遅くなりましたが、昼食にしますか~
ということで、次回に続きます(^◇^)
NHKの大河ドラマ「天地人」をご覧になっていらっしゃる方は、越後の上杉謙信の養子景勝が家督相続争いに勝利して上杉家を継いだ人物だという事はよく存知だと思います。
上杉景勝は慶長2年(1597)に豊臣秀吉の五大老の一人となり、翌年には120万石の領主として会津入りしました。
「天地人」の主人公である直江兼続はこの当時は景勝の重臣の一人でしたが、景勝から6万石を与えられて米沢城主となりました。
執政(家老)の立場にあった兼続は米沢と若松の間を頻繁に行き来していました。
現在の会津若松市にはこの直江兼続ゆかりの地とされている場所がいくつかあって、今年は「天地人」ブームにあやかり会津観光の目玉としてクローズアップされています。
★神指城(こうざしじょう)跡
慶長5年(1600)会津領主上杉景勝は直江兼続に新しい城神指城の築城を命じました。
当時はすでに鶴ヶ城という立派な城があったのですが、山に近く城も町全体もこれ以上大きくすることは不可能であったために、平坦な場所での守りを重視した新しい城と、それを中心にしたより大きな城下町を作る必要があったのでしょう。
完成すれば鶴ヶ城より規模が大きい城(面積は鶴ヶ城の約2倍)になるはずでしたが、工事の途中で徳川軍が攻めて来たために中止になったまま未完に終わり、幻の城となってしまいました。
神指城跡は会津若松市神指町高瀬地内にあり、現在残っているのは本丸と二之丸の四角い形の土塁のみですが、その一角にある「高瀬の大木(けやき)」は国指定天然記念物となっています。
★直江兼続屋敷跡
若松における直江兼続の屋敷は鶴ヶ城にほど近く、建坪は1万2千㎡という広大なものだったらしいとのことです。
現在の会津若松市山鹿町地内で、その辺りには「山鹿素行誕生の地」の碑が建立されています。
山鹿素行は武士道の精神を確立した人として有名で、31歳の時に赤穂藩に仕え山鹿流兵学を完成させて赤穂四十七士の生みの親とも呼ばれています。
兼続がこの地にあった屋敷に住まいしていた時期は、その素行が誕生する何十年も前のことでした。
★愛宕神社
当時の愛宕神社は直江兼続の屋敷から300mほどの距離の場所にありました。
兼続はこの神社の武運の神様である大権現を信仰しており、度々参拝に訪れていたとのことでした。
一説によると、兼続の兜の前立てに使われている「愛」の文字はこの神社の名に由来しているのではないかといわれているそうです。
愛宕神社は寛永10年(1633)に飯盛山に近い場所に移されていますが、現在の会津若松市東山町慶山地内です。
ちなみに僕の勤務先からだと徒歩15分位で行けます(^◇^)
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※参考にしたHP及びブログ
★会津若松市ー「会津と直江兼続」
★石田明夫の「会津の歴史」
我が福島県の耶麻郡磐梯町(やまぐんばんだいまち)には、有名な「史跡慧日寺(えにちじ)跡」があります。
慧日寺は1200年前の平安時代に高僧「徳一(とくいつ)」によって開かれ、会津の仏教文化の中心地とされてきました。
この慧日寺跡で「金堂」の復元工事が行われていましたが、このほど完成し、25日(金)から一般公開されています。
金堂は、幅約20m、奥行き約12mの寄棟造で、平安時代初期の建物を、発掘調査や文献をもとに3年の歳月をかけて復元したものです。
金堂は、寺ではなく博物館として登録されるため、内部には仏像などはありません。
今現在は空っぽの状態ですが、磐梯町ではこれから展示物を充実させてここで催しなどを開くことも検討していくとのことでした。
史跡慧日寺跡には慧日寺金堂の他に「磐梯山慧日寺資料館」、「慧日寺本堂・山門」、「厩嶽山(うまやさん)馬頭観音」、「中心伽藍整備地区」、「乗丹坊(じょうたんぼう)供養塔」、「不動院龍宝寺不動堂」、「仁王門」、「薬師堂」「徳一廟」、「今与供養塔」「伝高幡寺跡」、「磐梯神社」、「木ざし桜(種蒔き桜)」、「龍ヶ沢湧水」「戒壇跡」などがあり、資料館見学と史跡散策の所要時間は合わせて1時間半位です。
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☆復元金堂のみどころ☆
●屋根
発掘調査では瓦が出土されていないことから植物質の材料で葺かれていたことが分かり、積雪山間地の気候風土を考慮して厚めの杉板を用いた「とち葺」で復元しました。
●組物
寺院の中心の建物は荘厳さを見せるため通常軒を大きく出しますが、ここでは冬期の積雪荷重を考慮して軒桁が柱の真上に載る「平三斗」と呼ぶ組物を採用し、軒の出を押さえました。
●天井
当時高さ約4.8mあったという薬師三尊像を想定して、天井板を貼らず屋根裏が直接見える「化粧屋根裏天井」という構造を採っています。
骨組みの赤と化粧裏板の白のコントラストが美しいです。
●柱
身舎柱39㎝、側柱36㎝、総計36本の柱は樹齢200年を超す四国のヒノキを調達しました。
●床板
発掘調査により建物の基礎である基壇が南側に緩く傾斜していることが判明し、これによって床は土間ではなく床板を貼って水平を保ったということが分かりました。
床板は厚さ6㎜のヒノキです。
●須弥壇(しゅみだん)
幅7.5m奥行き2.5mにも及ぶ大型の須弥壇を設置し、会津塗りの伝統工芸士が黒漆塗り仕上げを施しました。