田舎者ですが(^◇^)

会津の四季やローカルな話題、日常の出来事などを不定期ながら少しずつ綴っていきます。

長い長いラブレター

2009-04-23 02:17:08 | 手紙
親愛なるK子さん、こんにちは。
僕は最近手紙という物を書いていない事に気づきました。
それで、久しぶりに手紙を書きたくなって、その相手として貴女が今一番ふさわしいと思ったのです。ご迷惑でなかったら最後まで読んで下さい。何から書き出して良いやら、いつも手紙の書き出しには頭を悩ますものですね。
とりあえず、思いつくままに書いてみますね。 
僕は生まれつき身体が弱かったせいか、小さい頃は病気ばかりしていて、小学校に上がるまでに5回も生死をさ迷う大病を患ったそうです。もっとも、僕自身は全く記憶にありません。小学校3年生までは自宅と病院と学校を行ったり来たりして過ごしました。
6年生になったばかりの頃、仲の良かった優しい次兄がある日突然すっかり人が変わった様に乱暴になって、学校にも行かなくなり家族のみんなに暴力をふるい始めました。そしてとうとう母に大怪我を負わせたあげく父と衝突し、高校も中退して家出をしてしまいました。兄は東京で仕事を見つけしばらく働いていたのですが、どこに行っても長続きせず職を転々とする内にノイローゼにかかり、酒と精神安定剤の中毒で身体も心もぼろぼろになりました。ある施設に入れられて長期間の治療を受けた結果、身体の方はどうにか元通りに治って又働ける様になりましたが、しばらく音信不通になってしまいました。
後で分かった事ですが、兄は大分前から「対人恐怖症」という心の病に陥っていたらしいのです。
兄の高校時代の担任の先生の話によると、授業中に兄が先生に指名されて答えた時に周りの生徒達が理由もなく大声で笑ったので、兄は顔を真っ赤にして教室を飛び出して行き、その翌日から学校に行かなくなったそうです。
きっかけはその出来事かも知れないとの事でしたが、本当の所は誰もわかりませんでした。兄は成績は全校でも成績はトップクラスでしたが、クラスメートの間では「変人」と呼ばれていつも仲間はずれにされていたそうです。  
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そんな事があってから、僕自身もいつの間にか無口で暗い性格になり、友達も一人二人と離れて行ってしまい、中学時代はいつもひとりぼっちでした。楽しみといえば、学校の隣にある教会での日曜日のミサでした。僕の通っていた中学校はこの辺りでは唯一のミッションスクールだったのです。それまで全く勉強嫌いだった僕も気を紛らわせる為にこつこつと勉強をする様になりました。 
一所懸命の勉強の甲斐あって目指す高校に合格したのですが、その高校は県内有数の進学校だったので僕にはあまりにもレベルが高過ぎて授業についていけず、「劣等性」というレッテルを貼られた僕にとっては、惨めな毎日が続きました。2年生の後半になり進路を決めなければならなくなりました。
僕はもう勉強なんてやりたくない、卒業できたら絶対就職するんだ!と思っていました。しかし、ここで父の猛反対に遭い結局浪人覚悟で進学の為に受験勉強をする事になったのです。自分でも人が変わった様に死に物狂いで猛勉強しました。
その結果奇跡と言うかまぐれと言うか希望の学校に一発合格し、やったと思いました。 期待に胸を膨らませて、夢にまで見た大学に入学しました。でも、その喜びも束の間でした。味気ない学生生活、授業も一方通行の講義だけに終始し、教授と学生の対話もほとんどありません。親しい友人は一人もいないし、周りを見渡すとまるで暇を持て余しているみたいな奴らばかり集まっているキャンパス。本当に勉強をしに来ている学生はほんの一握りです。    
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2年生になると、家庭の事情で仕送りが全く途絶えてしまいました。アルバイト探しをしているうちに、先輩の紹介で「S給食」という学生食堂とか社員食堂専門の会社でバイトを始めました。仕事は主に皿洗いですが、忙しい時はご飯やおかずの盛り付けなども手伝いました。きついけれども、コックさん達は意外と優しくて料理の作り方などを教わったり、美味しい賄い料理が食べられたりと結構おもしろかったです。
所が、この会社は勤め始めてから半年余りで倒産してしまいました。
社長は夜逃げをして、バイト料2か月分がパーになってしまったんです。
何てこった!・・・あんまり悔しかったので、一緒にバイトしていた仲間の内の一人とどうすればバイト料が取れるか考えました。それで、社長の2号を強請って金を巻き上げる事を思いつき実行に移しました。市ヶ谷にある2号のマンションに押しかけました。入り口で話をしている内に女は急に奥に引っ込み、入れ替わりにドスを右手に持ったふんどし一丁のやーさんが出てきて形勢逆転です。
やべえ!ヒモだ!!ずらかるべ!!危ういところで僕達は駆け出し、階段の途中から転がり落ち身体中血だらけにしながら命からがら逃げてきました。
それからしばらくは、そのやーさんのひげ面が頭にちらついて外出する時は辺りをキョロキョロ窺うようになりました。
その後新しいバイトが見つからず、食う金に困って質屋通いをしたり例の先輩とかその友達の家でご馳走してもらったりしていました。昼間より夜のバイトの方が稼ぎが良いのですが、僕にできる仕事といえば数少ないのです。
結局、倒産したS給食の元従業員の方の世話で新橋の牛乳販売店の面接を受け、即採用となりました。勤務先は有楽町(1年後には大手町の新社屋に移転しました。)近くにあるY新聞社の社員食堂内の売店でした。       
売店の仕事は夕方の5時から始まります。6時から8時半頃までは腰を下ろす暇もない程忙しくて大変です。9時から10時までの間は大きな手押し車で各階に夜食用の牛乳とパンを配達しなければなりません。これが非常に重労働なので最後はくたくたになります。でも、その配達が済んで休憩し風呂に入ってシャワーを浴びるとほっとします。
仕事は12時までなのですが、10時半を過ぎると暇になるので店番をしながら本を読んだりテレビを見たりして過ごします。試験期間中はこの時間に勉強していました。本当に楽な仕事ではなかったのです。でも、給料がすごく良かったので、生活費と部屋代と授業料を差し引いてもかなりの余裕がありました。
そんな訳で、いつの間にかバイトだけに生甲斐を感じる様になり、自分は学生であるという事を忘れてしまっていました。夕方から深夜まで働き、終電で帰って来ると市川の下宿に着くのが丁度午前1時。深夜放送を聴きながらノートの整理、レポート作成、それが終わると読書をします。朝の5時近くになると眠くなって来るので床に入り、昼近くまで寝ています。  試験期間中を除いて学校へ行くのは午後だけです。
毎日がこの繰返しでした。学校は自分の好きな時に休む事ができますが、アルバイトは年中無休なのです。正月も休刊日も関係なしです。しかし、このバイトは卒業まで一日も休まずやり通しました。大学は何とか落第もせず4年生まで進級し、2月初めに卒論を完成させたのですが、肝心の卒業試験に落ちた為に3月には卒業できませんでした。6月に追試を受け3ヶ月遅れでやっと卒業する事ができたのでした。     
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卒業と同時に下宿のおばさんの紹介で、台東区の今戸にある二流の商社に採用されました。靴の製造に関する機械や材料を輸入して日本全国のあらゆる靴メーカーに販売していました。僕の配属先は材料部の営業課で、担当する顧客は台東区を中心として、江東区、墨田区、荒川区足立区、葛飾区、江戸川区などに点在する中小の靴メーカーでした。
実力だけが物を言うこの世界は僕にとってあまりなじめなかったのですが、努力すれば必ずそれが結果に出ると言う事がだんだん分かって来て、無我夢中でがんばりました。何度も何度も壁にぶつかりながらも、少しずつですが、着実に実績を積み重ねて行きました。
所が(人生はこの「所が・・・」という言葉の繰り返しですね。)・・・3年目のある日、信頼していた先輩の裏切りと一番親しかった同僚の突然の事故死などが相継ぎました。特に、仕事上の良き相棒を失ったショックは僕にとってあまりにも大き過ぎて、その日から営業成績はたちまち下降線を辿り始めたのです。
それに追い討ちを掛ける様に、尊敬していた上司には身に覚えのない罪を着せられ、周りの人達がたちまち僕を白い眼で見るようになりました。 
この頃の僕は飲めないくせに無理してやたら毎日自棄酒(やけざけ)をあおっていたのでした。酔っ払って帰りの電車の中で喧嘩沙汰を起こし警察のお世話になった事もありました。ボーナス(決して少ない額ではなかった)をもらった日終電過ぎまで飲み歩き、上野の地下道で一泊し、翌朝気が付いたら背広の内ポケットに入っていたはずのボーナスは袋ごと無くなっていたのでした。
その内、周囲の人間が誰も信じられなくなり自分はノイローゼなんだと思い込んで医者に相談したけど、相手にされませんでした。
自殺しようとまで思い詰めた事も一度や二度ではなく、いつのまにか僕は未来への希望も失いかけていました。自分の意思とは関係なく、心の中にある歯車がどんどん狂って行く様な気がしてとてもたまらなかったのです。真面目に生きようとしている僕が何故こんな目に遭わなきゃならないんだろう?僕は今ここで燃え尽きてしまうのだろうか?・・・
そんなある日、田舎の父から電話があり、「もうそろそろこっちに帰って来ないか?」とのひと言に僕は救われた思いがしました。こうして、千葉と東京で過ごした僕の9年間の都会での生活に終止符が打たれました。
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僕はあの時自分としてはどん底まで堕ちた訳ですが、幸いな事に本当の「地獄」を見るまでには至りませんでした。世の中には底辺でもがき苦しんでいる人達がたくさんいます。そして努力の甲斐も無く浮かび上がれずに、ついには沈んで行ってしまう人達もたくさんいます。実際、そうした人達を僕はこの目で数多く見て来たのです。その人達の体験に比べたら僕の体験などはとてもちっぽけな物だと感じます。ちっぽけだけどこの体験はこれからの僕が生きて行く上で大きな心の支えになるでしょう。辛く苦しかったけれども、今ではみんなみんな懐かしい思い出ばかりです。 

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数多くある思い出の中で真っ先に浮かぶのは父の事です。僕の父は高校の教師をしていてとても頑固で厳しくて正義感の強い人でした。でも、男の優しさを
持っていた人でもありました。
父が癌で亡くなる前の日に僕を枕元に呼び、言いました。「俺が死んでも涙なんか流すんじゃねえぞ。男ってえいうものは人前でめったに泣いたりしちゃいかん。・・・泣いてもいいのは母ちゃんが死ぬ時だけでいい。分かったか?」
これを書いている内に、何か以前読んだ小説の中にもこれと似たような場面があったのを思い出しました。愛する者の為に泣けるそんな男の優しさを僕はいつも持ち続けていたいと思います。
父の話がでたのでついでに・・・子供の頃父から良く聞かされていた自慢話で、未だに嘘か誠か真相が謎のままのお話です。父は体育の先生だったので、スポーツは万能特に剣道は有段者でした。そして無類の酒好きでおまけにものすごく短気で喧嘩っ早かったのです。
ある日町の飲み屋で父が飲んでいた時、そこの女将が若いチンピラ数人に絡まれて困っていたので父が助け舟を出した途端に喧嘩になりました。そして30分後、父は後から加勢に来た者を含めてチンピラ10数人を持っていた剣道の竹刀で一人残らず叩きのめしてしまいました。
翌日角定(かくさだ)一家という地元のヤクザの親分が子分どもの不始末の侘びを入れに父の勤務する学校まで出向き、土下座していったそうです。
かなり大昔の事らしいのですが・・・
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僕は今こうして貴女に「思い出」について手紙を書いている訳ですが、「手紙」と言えば、印象に残っている思い出がひとつあります。僕が最初のバイト先で知り合った4歳年上の女性と、卒業後もしばらく文通をしていました。二人とも読書が好きだったので、お互いに自分が読んだ本の感想文などを手紙に書いたりしていました。
その彼女がある日僕にくれた手紙の中に・・・「貴方がくれるお手紙の最後には必ずー短くても良いからお返事下さいーと書いてあるけど、田舎の母がくれるお手紙にもそれと同じ文句を使うのよね、年賀状にもなの。今日は珍しく長いでしょう?・・・」という件があり、 そしてその長い手紙の最後には「私今度田舎に帰って結婚するのよ。だからこのお手紙が最後になるの。とても悲しいけどこれでお別れね。サ・ヨ・ナ・ラ」と小さな字で書いてあったのです。
その手紙は今ではもう残ってはいないけど、その同封されていた朝顔の押し花は僕の本のどこかのページにまだ挟んだままになっているはずです。
長い手紙もいいんですけど、こうして思いつくままに書いていると、きりがありませんね。それに頭が疲れてしまいます。
でも、久しぶりですのでもう少しがんばって続けてみたいと思っています。
K子さん、お疲れでしょうがもう少しお付き合い下さいね。
In your patience,ye(you) shall win your souls.
あなた方は耐え忍ぶ事によって自分の魂を勝ち取るでしょう(聖書の中の言葉です)
次はどんなお話をしましょうか?そうそう、僕の部屋・・・貴女が来る時はちゃんと片付いているけど、あれはよそ行き風に整頓してあるからです。いつもだと布団は敷きっぱなしだし、コタツの上は適当に散らかっているし、そのへんに脱ぎっぱなしのワイシャツとかズボン、たまに下着や靴下などが落ちていたりします。やはり、自分のの部屋はちょっとだけ散らかっていた方が、気分がすごく落ち着くのです。
又東京にいた時の話ですが、葛飾の新小岩駅(南口)のすぐ近くにあったアパートの四畳半に住んでいた頃の思い出です。僕が風邪で1週間程寝込んでいた時に、会社の業務課の女の子が心配して見舞いに来てくれました。しかし、彼女は部屋の入り口のドアを開けたままそこに立ちすくんでしまったのです。
彼女の視線は扉が開きっぱなしになっていた押入れの下の段の中に釘付けでした。そこには脱ぎ捨てられた2週間分の使用済み下着が積み重ねられていたのです。自慢じゃないけど、下着だけはたくさん持っていたのです。もちろん全部男物です。当たり前ですが・・・
あと、流し台には汚れた食器の山が、そして床に転がっている空き缶、吸殻が山盛りになった灰皿(今は喫煙しませんが、当時の僕はヘビースモーカーでした。)、安いウィスキーの空きボトルとそして、そして・・・僕の部屋の床の半分以上を覆い隠していた古新聞紙。その上に敷きっぱなしの万年床でぐったりしてい
る僕を見て彼女は呆れたような表情を一瞬見せたのですが、次の瞬間わなわなと身を震わせるや否や、いきなり僕を布団ごと丸めてしまい部屋の隅っこに押しやってしまいました。
更に、ものすごい勢いでそこら中片付け始めました。僕はその内、熱のせいで半分気を失ってしまいました。
しばらくして、彼女が去った後気が付いてあたりを見回してみると古新聞氏と空き缶・空きボトルはきちんと整理してあり、食器類はきれいに洗ってありました。でも、不思議な事に脱ぎ捨てられていた下着だけはそっくりどこかに消えてしまっていました。はてさて、消えてしまった下着はいったい何処へ行ってしまったのでしょうか? 
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風邪もようやく治ったので出社し、あの女の子にお礼を言う為に業務課に行ったら、彼女は風邪を引いて休んでいるとの事でした。午後、自分のロッカーを開けました。そして、目に入った物は・・・きれいな紙袋、その中には洗濯してきれいに畳まれた僕の下着がありました。
下着の話をついでにもうひとつ・・・。浅草で外回りの仕事中にある用事で独身女性の家を訪問した時、窓の外に下着が干してあり、ピンクとかベージュのブラジャー、パンティー(なぜか僕の好きな白い色の物は一枚もありませんでした。)
と一緒に、なっ、なっ、何と男物の特大の柄パンが干してあったのですよ!
聞くところによると、その周辺ではまっ昼間に下着泥が出没して、ちょっと目を離した隙に2,3枚盗まれてしまうとの事で、彼女も何度か被害に遭ったそうなんです。そこで彼女、一計を案じ、試しに男物のパンツを一緒に干すようになったら、下着泥も寄り付かなくなったとの事ですが、これは一体何故なんでしょうね?
格調高い(?)書き出しで始まったはずのこの手紙なんですが、僕の恐れていた通りにやはり最後は「下着」の話になってしまいました。僕って本当は変態なんでしょうか?あっ!!そこで頷いたりしたら許さないからね。もう~・・・。
このまま話が終わってしまうときっと後悔すると思うので最後の最後に心温まる(?)お話を・・・
僕が二十歳の時は学生で、千葉県の市川市に住所がありました。市川市役所から成人式の通知を受けていたんですが、アルバイトをどうしても休みたくなかったので欠席しました。なにしろ、貧乏学生には生活がかかってましたんで(笑)
その日僕のアルバイト先では仕事が終わった後はすぐに帰宅されるはずの従業員の方々が全員集合されて僕の為に盛大な成人の日のお祝いのパーティー
を開いて下さったのです。従業員の方一人一人から祝福の言葉を聞かされ、とても胸がいっぱいになってしまい、思わず大声で歌を歌ってその場を誤魔化
しました。成人の日の度事に思い出される、とてもうれしかった出来事です。
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最後にもうひとつのお話を・・・これで本当に最後にしますからね。僕の母は三姉妹の一番下だったのですが、叔父は更にその下で、つまり末っ子で長男でした。叔父は医大を卒業した数年後に自宅で開業医を始めました。叔母と結婚したのは昭和11年でした。
ところが・・・叔父は太平洋戦争の際に軍医として従軍中下半身に銃弾を受け負傷し、その後遺症で歩行が不自由な体になってしまいました。叔母は叔父の往診の足代わりとなる為にすぐに運転免許を取得しました。当時はまだ女性のドライバーなど少なくて珍しい時代だったそうです。
急患の知らせがあると夜中でも叔母の運転する車で往診に行っていました。
叔父と叔母は人も羨むほど仲睦まじいご夫婦だったそうです。
お二人は誰に対しても優しくて、僕も子供の頃から可愛がられました。
叔父は多くの患者さんに慕われていて、地元の方々からも尊敬されていました。叔母は叔父に献身的に尽くす傍ら短歌を嗜み、歌集を出版しました。裁判の調停員も努めていたそうです。
しかし、叔父は積もり積もった過労がたたり60代半ばに急死してしまいました。
叔母はその後悲しみのあまり三日間も泣き続けて過ごしました。
四日目の朝、叔母は布団の上で正座し叔父の遺影を抱いたままうつぶせになった状態で息絶えていたそうです。棺に入れられた叔母の顔は目をつぶったまま微笑んでいました。
叔父ご夫妻は今頃きっと生まれ変わって再び出会い、結ばれてこの空の下のどこかで又仲睦まじく暮らしていると思います。もし僕が結婚したら妻を心から愛して叔父さん伯母さんみたいな夫婦になるのが夢です。

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全くとりとめのない文章になってしまいました。今度は本当に頭が、そして右手も疲れて来ましたので、この辺で止めておきます。
最後まで読んでくれてありがとう。これでもう当分手紙は書かないと思います。
つまらない話ばかりでごめんなさい。僕自身つまらない人間ですから・・・
こんなつまらない僕で良かったら、一緒になって僕の夢を叶えてくれるとうれしいです。
それでは、月並みな言い方ですが、又お会いできる日までお元気で。           ーK・M
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※この手紙の内容は僕の実体験を基にしたフィクションです。
以前のブログに掲載したものに加筆をしました。
この長い文章を最後まで読んで下さってありがとうございました。

コメント (26)
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