田舎者ですが(^◇^)

会津の四季やローカルな話題、日常の出来事などを不定期ながら少しずつ綴っていきます。

Y先生のこと

2009-05-25 12:03:23 | 障がい者のこと

「目の見えない方でも自分でできる事はたくさんあります。
世話のやき過ぎはかえって目の不自由な方の心を傷つける事になりかねません。」

このブログでは以前「障がいを持つ方に対して」という題で目や体が不自由な方に接する時の心配りとかお手伝いの仕方について記事にしたことがありますが、上の文章はその中で書いたものです。
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視覚障がい者のY先生は岩手県出身ですが、13歳の時に事故で失明して全盲となってからは数々の苦労を味わってきた末にこの会津の地に辿り着いたそうです。
会津で生活するようになってからはご結婚もされてお子さんにも恵まれました。
大きな総合病院の整形外科専属でリハビリの仕事に携わり、定年まで35年間も勤務され多くの患者さん達から信頼され慕われていらっしゃいました。

僕がガイドヘルパーの仕事を始めてすぐの頃に先生からよくご指名を受けて外出介助の仕事をさせていただきました。

「先生は何故僕のような不慣れな者をご指名して下さるのですか?」と質問をしたことがあるのですが、それに対して先生は、「君が僕の仲間達の役に立てるようになるまでにたくさんの経験を積んで欲しかったので、そのために我が身を犠牲にしようと思ったからです。」とお答えになりました。

この様に口は悪いけれどY先生は慈愛の精神に満ち溢れた方でした。

お歳の割には恐るべき健脚の持ち主で、一緒に地元の背炙り山(標高863m)に登ったこともあります。

自宅と登山口との往復6㎞の道も徒歩でした。

自宅周辺はもちろん市内中心部のあらゆる道を知り尽くされていて、僕にいくつかの近道を教えてくれました。
そのY先生が数年前にある介助講習会に講師として招かれた時にされたお話をご紹介します。
先生は「目が不自由だからと言ってあまり私達の世話をやき過ぎないで欲しいのです。たとえ目が不自由であっても私達『視覚障がい者』はあなた達『晴眼者(視覚障がい者の側からは目の見える健常者の事をこう呼びます)』が日常の生活の中でしているような事はたいてい一人でできるのです。」と述べられ、次の様な内容のエピソードを披露されました。
先生がある日介助者と一緒に街へ出かけた時の事です。
お昼時になったので食事をとろうと思い、あるファミレスに入りました。
先生が注文した物は刺身の盛り合わせ定食でした。
注文の品が運ばれてきた時すぐに先生はある事に気付きました。
あろうことか刺身全体に醤油がかけられていました。
目には見えなくても匂いで分かったのです。
そこで、先生は介助者に「あなたが刺身に醤油をかけたのですか?」と訊ねたところ、「お店の方が勝手にした事であり、私も刺身に醤油をかけてと頼んではいないです。」という返事が介助者から返って来ました。
すかさず先生は、「それでは、大変申し訳ないですが、同じ物を追加で注文して下さい。もちろんその分の料金もお支払いします。ただし、今度は刺身に醤油をかけないようにと店の人にお願いして欲しいのです。」と告げました。
先生はその時に心の中では「頼みもしない事をしやがってこのお節介野郎め!」と叫んだそうです。
「この店の対応は視覚障がい者を馬鹿にしている感じがして、とても不愉快で腹立たしかった。二度とこの店には来るもんか!」と先生は本気で思ったそうです。
店の方は多分、「このお客様は目が不自由なので醤油をいちいちつけるのは大変だろうから最初から刺身に醤油をかけてあげよう」と思い、気を利かせたサービスのつもりだったので決して悪意はなかったという事は想像できます。
Y先生は何故これほどまでお怒りになったのかと疑問に思う方も多いと思います。
皆さんはこのお店の方の対応をどのようにお感じになられましたでしょうか?
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ちなみに、視覚障がい者と一緒に食事をする場合は注文する前にまずメニュー表を読み上げてどんな物があるのかを確認してもらいます。
料理が運ばれて来たらテーブルを時計の文字盤に見立てて、料理の置いてある位置を時計の針が差す方向で教えます。
例えば視覚障がい者の座っている位置が6時だとして何時の方向に何があるかという事を確認してもらいます。
後で料理の置き場所を都合により変更した場合もその事を確認させるのを忘れてはいけません。
視覚障がい者の方は初めに料理の位置さえ正確に教えてさえもらえればそれを全て記憶し、後は一人で自由に食事ができるのです。
料理の種類と形・色(視覚障がい者となった時期や障がいの程度によって多少個人差はありますが全ての視覚障がい者が自分なりにちゃんと認識できています)もできれば説明しましょう。
後は・・・あ、そうそう、これは重要な事なんですが、ワサビの様な辛い物とか熱い食べ物や飲み物は事前にその辛さとか熱さを説明して確認してもらう事ですね。
そして、食事の合間にできるだけ明るくて楽しい会話をするのを心がけて下さい。
周囲の様子などを説明してあげるのもいいですね。
余談が長くなってしまいましたが、視覚障がい者の方とお付き合いされる機会があった時にでもこれを参考にしていただければ幸いです。
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※これと内容が同じ記事を僕の以前のブログでも書きました。
以下の関連記事も読んでいただいた上で、障がい者に対するご理解をより深めていただけるとうれしいです。
どうかよろしくお願いいたします<m(__)m>
障がいを持つ方に対して その1
障がいを持つ方に対して その2
障がいを持つ方に対して その3

コメント (18)
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障がいを持つ方に対して その3

2008-11-01 00:28:53 | 障がい者のこと

(その2からの続きです)
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☆障がいを持つ方へのお手伝いの仕方
~肢体(手足や体)の不自由な人に対する場合
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肢体不自由となる主な原因は、大きく分けると「生まれつき障がいがある先天的なもの」「病気や交通事故、労災事故、その他の事故や災害などによる後天的なもの」そして「生まれる前から原因があって、障がいそのものは生まれた後に起こってくるもの」の3つがあります。
昔はポリオ(脊髄性小児まひ)や脳性まひなどにより障がいを持つ方が多かったのですが、今では脳卒中や交通事故・労災事故などにより障がいを持つ方が増えています。
これらの障がいの状態は様々で、「車椅子の方」・「松葉杖の方」・「義足をつけている方」・「麻痺(感覚が無くなり動かなくなる事)不随意運動(動かそうと思っていないのに動いてしまう事)がある方」などいろいろあり、お手伝いの仕方もそれぞれ違ってきます。
ここでは車椅子を使っている方に対する場合のお手伝いの仕方をご説明します。
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[車椅子を使っている方が困る時]
●階段はもちろん、道路のちょっとした段差でも超える事ができません。
●砂利道や芝生、坂道では自分で車椅子を動かすのが大変です。
●雨の時、傘がさせません。
●利用できるトイレが少ないので行きたい所へ行けません。
●バスや電車の乗り降りなどが難しいです。
●公衆電話を使って電話をする時、ダイヤルもしくはプッシュボタンの位置が高過ぎるて電話がかけられない時があります。
●スーパーマーケットなどで買い物をする時、高い所にある品物が取れません。
この他にも、日常我々健常者が気にも留めない事でも車椅子を使っている方にとっては大変困る事がたくさんあります。

しかし、困っていると思ったからといっていきなり勝手に車椅子を押したり引いたりすると、はずみで乗っている方が車椅子から転げ落ちたりして大変危険です。

まず声を掛けて、何をして欲しいか聞く事が大切です。
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[車椅子の折りたたみ方と広げ方]
●折りたたみ方は、フットレストを畳んでからシートの中央を掴んで持ち上げるようにして完全に折り畳みます。
※折りたたむ時と広げる時は、必ずブレーキを完全にかけてから行います。
●広げ方は、外側に少し開いてシートを押し広げます。
※シートの下に指を挟まれない様に必ず手の平を外側、指を内側に向けて押し広げます。
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[車椅子の押し方]
●車椅子の真後ろに立ち、両手でグリップを深くしっかりと握ります。

前後左右に注意してゆっくり押します。
※フットレストと物との距離に注意して下さい。
※静止している時は必ずブレーキをかける事を習慣にして下さい。
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[車椅子で段差や溝を超える時]
●段差や溝を越える時はステッピングバーを踏んでキャスターを浮かして段又は溝の向こう側に降ろします。

次に大車輪を押し上げます。
●段差を降りる時は後ろ向きにゆっくりと大車輪を降ろし、ステッピングバーでキャスターを上げ後ろに引き、ゆっくりとキャスターを降ろします。
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[車椅子での坂道の上り方と下り方]
●上り坂の場合後から少し身体を前傾して一歩一歩しっかり押します。

押し戻されないようにします。
●緩やかな下り坂では前向きで急な下り坂では後向きで、ブレーキを軽くかけながら一歩一歩ゆっくりと下ります。
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[車椅子で階段を上り下りする時]
●いろいろなやり方がありますが、大切な事は安全である事とお手伝いする方の負担が少ない方法で行う事です。
●3人又は4人のお手伝いをする方がいる場合上りは車椅子を前向きにして、下りは後ろ向きにしてお手伝いするのが一般的です。
●2人の場合では1人が車椅子の前部の左右にある
縦のパイプ(下図参照)を両手で持ち、キャスターを少し浮かせ気味にして中腰になります。

もう一人は左右のグリップを両手で持ち、大車輪を階段に乗せたままで一段一段ゆっくりと呼吸を合わせながら引き上げ又は降ろします。
これが最も負担の少ないやり方ですが、2人が車椅子の左右から車椅子ごと抱えて上り下りするやり方もあります。
車椅子の方の状況が様々ですので、お手伝いする前に車椅子に乗っている方にどうしたら良いのか聞いて下さい。
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相手が目の不自由な方でも車椅子を使っている方でもお手伝いをする上で一番大事なことは・・・共通して言える事なのですが、お手伝いをする前に相手に必ず声を掛けるのが原則です。もちろん、一つ一つの動作に入る度毎にです。
声が小さい方や、脳性まひなどのために言語障がいがありなかなか言葉が出て来なかったり発音が不明瞭な方がいっらしゃったとしても、返事をしない方はまずいらっしゃらないでしょう。
もし相手の言葉が聞き取りにくい時は分かるまで根気良く聞き返して下さい。
聞き返すのは決して失礼な事ではありません。
分かったふりだけは絶対にしないで下さい!
車椅子の方の言葉を聞く時はできるだけしゃがんで自分の耳の位置を下げる様にすれば相手も言葉を出しやすくなると思います。
最近では言語障がいを持つ方で「トーキングエイド」という道具を携帯して使用される方もいらっしゃいます。
僕がヘルパーを担当している利用者さんがそうです。
キーボードの文字キーを押して液晶画面上に文章を映し出したり、それを音声に変えて相手に伝えたりする事ができます。
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長々と書いてしまいましたが、最後までお読みいただきありがとうございました。
お暇な時に少しずつでもこれを読んでいただき、目の不自由な方や車椅子の方のお手伝いに役立てていただければうれしいです。

もしご質問があればコメント欄↓にどうぞ。
障がいを持つ方が地域の中で自立していけるようにサポートしている立場の者として、一人でも多くの方が障がいを持つ方に対して関心を持ち積極的にお手伝いや協力をしていただける事を切に願っています。

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※参考文献:福島県肢体不自由児協会・福島県社会福祉協議会編「障がいをもつ人へのエチケット」

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障がいを持つ方に対して その2

2008-11-01 00:05:13 | 障がい者のこと

(その1からの続きです)
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☆障がいを持つ方へのお手伝いの仕方
~目の不自由な方に対する場合
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目の不自由な方といっても、全く見えない方や本・テレビなどを見る事のできる弱視の方など様々です。
その為にお手伝いの仕方もそれぞれ違ってきますので、まずどの様なお手伝いをして欲しいのか、尋ねる事が必要です。
目の不自由な方、つまり「視覚障がい者」の立場からは介助をする健常者のことを「晴眼者」と呼びます。
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[初めて会った時]
まず見える方から声を掛けて挨拶し、軽く握手をして下さい。

目の不自由な方は、握手する事で相手がいる方向や身長などが分かりますし親近感もわいてきます。
又、握手する時は必ず自分の名前を言って下さい。
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[一緒に歩く時]
●普通に歩く時は、見える方は見えない方に近い方の肘か肩(お互いの身長差に合わせて)を軽く持たせ、常に見えない方の半歩前を同じ歩調で歩いて下さい。
持たれた腕は前後に振らずに下に下ろしておきましょう。
手を引っ張ったり後ろから押したりしてはいけません。
見えない方には屋内では壁際を、屋外では安全と思われる側(例えば歩道と車道の区別がない道路では自動車の通る側と反対の側)を歩かせる様にして下さい。
●階段の上り下りの時は、一度階段の前で立ち止まり、「上り」か「下り」かを告げ、見える方が常に一段先を歩きます。

街の中で道路に段差がある場合も同じです。方角や場所を教える時は、「左」「右」「前」「後」とか「何歩」・「何メートルの所」と正確に言って下さい。

「あっち」とか「こっち」では分かりません。
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※道路での誘導の際は段差や狭い道、電柱、頭や目の高さの所にある木の枝、足元の看板、工事中の場所の通過などには充分に気を付けながら常に二人の安全確保に努めましょう。
もし余裕があれば、周りの風景やすれ違う人の様子なども説明してあげれば良いでしょう。
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[食事の時]
●着席する前に、椅子とテーブルの位置を教えます。
椅子は肘掛か背もたれに手を誘導します。

テーブルは角を教えます。
●着席したら、メニューを読み上げます。

食事が運ばれてきたら、あらかじめ食べ物の種類や位置を教えてあげて下さい。

器などにそっと手を触れさせてあげると形や大きさなども分かります。

(器が熱くなっている場合もありますので注意を促して下さい)
その他に色(障がいの時期などによって差があるかも知れませんが、ほとんどの方が自分なりに認識されています)や模様など説明してあげるのも良いでしょう。
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※テーブルの上を時計の文字盤に置き換えて物の位置を説明する方法もあります。
この場合は見えない方の位置が6時になります。
●途中で席を離れる場合は、黙って行かないで「ちょっと席を外します」と言い、戻ったら又声を掛けて下さい。
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[盲導犬]
●盲導犬は目の不自由な方を安全に誘導する為に訓練された犬なので、ペットではありません。

可愛い犬を見るとつい触ってみたくなるものですが、決して食べ物を与えたり頭を撫でたり抱いたりしないで下さい。
盲導犬は目の不自由な方の指示を聞きながらそれを判断して行動します。

その為に気が散る事を嫌います。
●盲導犬を連れた目の不自由な方と一緒に歩く時は、犬側を歩かないで下さい。
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[点字ブロック・音の出る信号機]
●点字ブロックは道路上の黄色く塗られた突起のあるブロックで、目の不自由な方を足元や白杖で触った感覚によってある場所まで誘導したり、四つ角とか建物の入口などの位置を確認する事ができる役目をしています。
●点字ブロックのある歩道の上に自転車や物などを置くと、点字ブロックを頼りに歩いている目の不自由な方にとって大変危険です。絶対に置かない様にして下さい。
●音の出る信号機は目の不自由な方が青か赤かを確認する場合、音によって知る装置です。
街の交差点などで気を付けて聞いてみて下さい。
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[世話の焼き過ぎはかえって迷惑]
お手伝いをする時は、あまり細かい説明は不必要です。
目の見えない方でもできる事はたくさんあります。
世話の焼き過ぎはかえって目の不自由な方の心を傷つける事になりかねません。
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(その3へ続きます)

Kaijo1 Kaijo2


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障がいを持つ方に対して その1

2008-10-31 23:40:44 | 障がい者のこと

あなたのお近くに目の不自由な方や身体が不自由で車椅子の生活をなさっている方がいらっしゃいますか?
あなたは他の方に対するのと同じ態度でその方に気軽に接していらっしゃるでしょうか?
それとも、そうしたいけどいつも上手く接する事ができずにぎこちない態度をとってしまったりしていらっしゃらないでしょうか?
又、あなたが街でそういう方達が困っている場面に遭遇した時に、気軽に声を掛けたり何かお手伝いをなさった経験はありますか?
それとも、お手伝いはしたいと思ったけれどもどの様にすれば良いか分からなかったとか?
障がいを持つ方と接する場合は以下のような心配りが必要なのです。
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~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
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☆障がいを持つ方への心配り
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1.障がいを持つ方に対するお手伝いは人間として当然の行いです。

ごく自然な気持ちでお手伝いしたいものです。
障がいのあるなし関わらず、人間はみなお互いに助け合って生きているのです。
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2.人間一人一人が皆違うように、障がいを持つ一人一人も全て違うのです。「障がい者」とひとまとめに考えるのは混乱の元です。
一人一人が別々の人格である事を認識する事が、障がいを持つ方に対するエチケットの基本です。
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3.障がいを持つ方のお手伝いをする時は、当たり前の事ですが、まず声を掛ける事が大切です。
黙っていきなり身体に触れたり、車椅子を押したりするのは失礼であり、相手を驚かせる事になります。
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4.障がいを持つ方が困っているのを見掛けたら、その方が何をして欲しいのかを聞く事が大切です。
独りよがりに手を出すのは、親切ではなくお節介になります。
障がいを持つ方自身も介助のされ方を工夫しています。
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5.障がいを持つ方を特別視したり、無能力扱いをしない事が障がいを持つ方に対して最も理解ある態度です。
同情に基ずく言葉や行動は控え目に。

必要な時には快くお手伝いして下さい。
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~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
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次は障がいを持つ方のお手伝いの仕方をあなたに分かりやすくお教えしましょう!
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(その2へ続きます)


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「踏み出す」-全国盲学校弁論大会優勝

2008-10-21 11:15:41 | 障がい者のこと

今月17日に福島市の県立盲学校(映画「春色のスープ」の舞台となった場所です。)で全国盲学校弁論大会が開かれましたが、この大会に東北地区代表として参加していた同校高等部普通科3年の鈴木裕花さんが優勝しました!
伝統あるこの大会の80年もの歴史において本県の盲学校の生徒さんが優勝したのは初めての事だそうです。
ご本人はもちろん、ご家族、そして学校の方々などのお喜びはひとしおと思います
一県人として心から祝福させていただきます。
裕花さんは出生後に未熟児網膜症を発症したため右目で光を感じ取れるだけの視力でしかなく、同校には小学部から在籍とのことです。
どんな事でも積極的にやらずにはいられないとかで生徒会長も務めており、今回の大会に備えて自宅でも一所懸命に練習していたそうです。
受賞後には真っ先に両親、先生、友達への感謝の気持ちを言葉に表し、これからの目標は大学に進学する事で、地域の障がい者を支えられる仕事に就きたいと語っていました。
裕花さんが大会で発表した弁論文のテーマは「踏み出す」です。
私立校の夏期講習と冬期講習に健常者の生徒達に混じって参加した際に、その生徒達が障がい者の自分を自然に受け入れてくれ当たり前の様に接してくれた事に裕花さんは驚きを感じました。
そして自分が勝手に健常者と障がい者の間に見えない壁を作っていた事を恥じたのです。
その経験を通して(裕花さんの)世界が大きく広がりました。
新しい世界に踏み出す勇気がどんなに大切であるか・・・
以下に裕花さんの弁論文の全文を原文のまま掲載させていただきます。

(※原文は縦書きです)
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全国盲学校弁論大会優勝
  
「踏み出す」
    
福島県立盲学校
    
高等部普通科三年 鈴木裕花

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 「おー、これがおれの名前か!」
私は去年の夏、近くの私立校の夏期講習に参加させていただきました。テキストは先生方に点訳していただいて。五日間、私立文系コースの二十七人の皆さんと一緒に国語と英語を受けました。
 七月二十三日、期待と不安に胸をふらませながら、二年七組の教室へ向かいました。
 「おはようございます」。
 ドアを開けるとがやがやしていて人数の多さを感じました。
 男子二十六人だったので、なんとなく観察されているようなよそよそしい感じがしました。
 私の席は一番後ろの廊下側。席に座っていると、隣のクラスの桃子ちゃんがあいさつにきてくれました。クラスに一人だけいる女子まりちゃんがたまたま欠席だったからです。
 いよいよ一時間目が始まりました。先生が冗談を言うとみんなで大笑いをしたり、いつ自分が指されるかどきどきしたり、全てが初めての経験でした。休み時間になると、お弁当のいい匂いがして、男子が早弁をしているのがわかり、新鮮でした。
 ある休み時間のこと。私がまりちゃんと話していると、数人の男子が集まってきました。
 「これで点字を打つんだって」とまりちゃん。
 「打ってみる?この先がとがっているのは点筆と言うんだけど、点字は六つの点の組み合わせなんだよ」と私が説明すると、一人の男子が名前を打ちました。他の人の名前は私が打ってあげました。点字板から紙を取り外すと、
 「すげー!!これが俺の名前なんだって!」「打つのめっちゃ早くねえ?」
自分で打ってみたい男子の行列ができました。部活の時間になってしまった空手部員の人が、打てなくて、とても残念がっていたのが印象に残りました。
 あっという間に五日がたち、「もっといたい」という正直な感想と共に終わりました。
 そして、冬期講習にも参加しました。教室に入ると、ずっと一緒に過ごしてきた仲間のような安心感と自然に受け入れてくれるあたたかさがありました。どうしてたった五日間しか一緒にいなかったのに、当たり前のように接してくれるんだろうと驚きました。
 私は今までずっと一人の授業が多く、普通校の人と関わる機会はありませんでした。だからこそ大学へ進学して、健常者と同じように学び、働きたいと思っています。
 担任の先生から夏期講習にまざる話を聞いたとき、視覚障がいのある私を受け入れてくれるのだろうか、友達はつくれるのだろうかなど不安はつきませんでした。でも、今しかないと決心しました。私が勝手に健常者と障がい者の間に厚く見えない壁をつくってしまっていたのです。
 しかし、この壁は簡単に崩されてしまいました。そのことに驚き恥ずかしくなりました。
 春休みは盲学校で課外を受けました。そんなある朝、安達駅で桃子ちゃんに会いました。一緒に電車に乗り、いろいろな話をしました。
 「今日はバスじゃないの?」
 「春期講習中だから歩きなんだ。一緒に行くよ」と桃子ちゃんが手引きをしてくれて、嬉しかったです。私がいつも歩いている道ではなく、裏道を行きました。
 「裕花ちゃんの学校ってどこにあるの?」
 「福高の近く」
 「ああ、わかったかも!」
 こんな会話をしているうちに、いつの間にか二人で迷子になってしまいました。私はどこを歩いているのかわからず困りました。ただ学校にはほど遠い感じがしました。
 「ここって一三号線だよね?」
 「うん、そうだよ」
 「郵便局ある?その近くに左に曲がる点字ブロックがあって歩道橋の下を通るんだけど・・・」
 「あ、あるよ!大丈夫、大丈夫」
 私がこの大冒険で気づいたこと。それは手引きをしてもらっていても自分で主体的に歩かなければ、目的地までは連れて行ってもらえないということでした。おしゃべりに夢中になりながら、もう一つの耳を働かせることの難しさを実感しました。
 八百九十七グラムで生まれた私が、今、生きていることにあらためて感謝しています。たくさんの人の愛に見守られ、支えられ、今日まで成長してきました。
 私は普通校の課外にまざるという経験を通して、世界が大きく広がりました。新しい世界に足を踏み出すのはとても勇気がいることです。それがどんなに小さな一歩でも進んだことに変わりません。きっとこれからも大切なことに気がつけると信じています。
 私は一人ではありません。ほんとうの空の下、同じように目標に向かってまっしぐらの人たちがいます。障がいの有る無しに関わらず、一人一人精いっぱい生きています。明るい未来に向かって。

Shinbunkiji

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ヨッチさんのこと

2008-05-26 00:57:50 | 障がい者のこと

N君とかやまちゃんと同じく自立生活センター設立時のメンバーの一人で代表を務めた経験もあり、今はやまちゃんとともにNPO法人運営委員の一人になっているのがヨッチさんです。
年齢は30代の初めです。
ヨッチさんのことは先月このブログでも書いたのでご記憶の方もいらっしゃると思います。
彼も脳性まひのせいで歩行困難の上両手が不自由です。
でも彼は僅かに動く手の指で自慢の愛車(アメリカ製電動車椅子レンジャーRGX)のスティックを巧みに操り、かっ飛ばして結構遠くの方まで外出します。
自称「車椅子暴走族」です。
言語障がいもあるため話し声は不明瞭ですが、僕は彼の話す言葉なら100%理解できるので、彼とは少しのタイムラグがある他は普通に支障なく会話を交わしています。
自分で考えた親父ギャグを連発して笑わせてくれるので、彼と一緒だと退屈しません。
彼の姿はちょっとだけ個性的ですが顔はかなりイケメンの方だと思います。
何よりもその笑顔はとびっきりで癒されます。
頭はかなりいいみたいです。(僕と比較してですが)
PC歴はかなり長くしかも独学で覚えたそうです。
両手が使えないのでPCやオーディオはすべて足を使って操作します。
キーボードも器用な足の指で打ち、実に見事なタッチを見せてくれます。
ここまで上達するまでには恐らく血の滲むような練習を重ねたんだろうと思います。
僕が「50の手習い」でPCを始め、彼のHPを訪れる様になった時に彼も僕と同じく沢田知可子さんのファンである事を知ってから急速に彼と親しくなりました。
もちろんそれだけではなくて、彼のいつも自然体なところとか、「決してがんばらない」けれどもいつも前向きなひたむきさに惹かれたからです。
そんなヨッチさんですが、彼には辛い過去があります。
20代の時にボランティアの女性と恋愛結婚をしましたが、うまくいかずに別れてしまったのです。
僕にはその原因が何だったのかは分かりませんが、恐らく愛し合う二人の力でもどうしようもない壁が立ちはだかり、それを乗り越えられなかったんじゃないかなと思います。
彼は精神的に落ち込んでしまい傷心の日々を送る内に、その辛い心情を詩に託し哀しくも美しい思い出として残そうと考えたのがきっかけで詩の創作活動を始めました。
そして、自分のHPに自作の詩のコーナーを設けました。
ヨッチさんの詩は沢田知可子さんの目にも留まり、彼女の口利きでバリヤフリー情報誌に彼の詩が掲載されたこともあります。
その後知可子さんから「もっと等身大の自分を表現してみたらどう?」という助言を受け、詩の中に「車椅子」という単語を取り入れるようになりました。
彼の夢は将来自分の詩集を出版する事と、知可子さんから自作の詩に曲をつけてもらうことです。
彼は限りない才能と詩への静かな情熱を持ちながらも、彼の背負っている重度の障がい故の体調の急変という不安と常に闘いながら、こわれやすいガラスのような体で日々を懸命に生きています。
先月、知可子さんのBBSにヨッチさんから以下の内容の書き込みがありました。
「(去年の10月の知可子さんの)喜多方ライブから約1週間後に頚椎の手術をし、1ヶ月間入院しました。手術は無事成功したのですが、その後の回復が思うように進まず今も右手右足はまったく使えない状態で、わずかに動くだけの左足を使ってマウスだけでPCを操作しています。今まで当たり前のように出来ていたことが出来なくなったことへのストレスとやり場のない怒りをどこにぶつければいいのかわからない時もありますが、気を長くして生きていきたいと思います。今年もちかちゃんのライブが見たいです。」
この書き込みでお花見会では聞けなかったヨッチさんの手術後の状態と心の内を知り、愕然としました。
僕としては今のヨッチさんにかける言葉(ありきたりの慰めではなく励ましの)が見つからないですが、彼の奇跡の復活を信じて神に祈っています。

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やまちゃんのこと

2008-05-26 00:23:16 | 障がい者のこと

障がいを持つ友「やまちゃん」・・・僕は親しみを込めていつも彼をニックネームで呼んでいます。
年齢は40代です。
脳性まひの彼は自らをミスターCP(脳性まひ)と名乗っています。
やまちゃんは僕がヘルパーとして所属しているNPO法人の理事の一人としてその運営に携わっています。
彼とは自立生活センター時代から約10年お付き合いしてきており、僕がヘルパーとして担当した回数が一番多かったのも多分彼でしょう。
彼は主に右半身が不自由で歩行困難なため外出する場合は状況に応じて電動か手動かどちらかの車椅子を使用しなければなりません。
更に言語障がいが特に重く、あまり興奮し過ぎると感情をコントロールするのが困難に陥る様な症状を見せる場合も時としてあります。
僕は正直に言うと未だに彼の話す言葉を30%程度しか聞き取ることができないのです。
何度か聞き返しますが、それでも理解できない場合があります。
彼はそんな時にはいつも携帯しているトーキングエイドという道具を使用します。
これを使えば自分の意思を確実に相手に伝えることができるのです。
左手の人差し指でキーボードの文字を1個ずつ押して文章を作り細長い液晶画面に映し出して、更に必要に応じてそれを音声にして知らせたりします。
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昔のやまちゃんはお酒がとても好きでした。
多分彼にとってお酒は小さな喜びを大きくしてくれたり大きな哀しみを小さくしてくれる「魔法の水」だったと思います。
彼は一時期アルコール依存症になったことがあります。
日々を一所懸命に生きていたにもかかわらず、いくら努力してみても自分の体を自分の力で自由に動かせない焦りと辛さをお酒の力で少しでもやわらげようとしていたのでしょうか・・・
会津に自立生活センターを設立し、初代の代表として活躍した故N君は彼の先輩であり盟友でした。
やまちゃんも設立時のメンバーの一人だったのです。
N君が体調不良を訴え自立生活センター代表の職を辞した後、副代表だった彼は二代目の代表に就任しました。
彼は仲間の期待に応えるべく自分の持てる力を精一杯発揮してがんばった・・・はずでした。
ところが、ある程度収まっていた彼のアルコール依存症がここで又出始めてしまったのです。
多くの障がい者達をまとめなければならない責任感とあまりにも偉大だった前代表と何かにつけ比較され批評される度に生じる焦燥感が巨大なプレッシャーとなって彼に襲い掛かかったのでしょうか・・・
しかし、彼は家族や周囲の方に支えられ地道な治療の日々を重ねた末に立ち直り今日に至っています。
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彼は素晴らしい才能を持っていました。
それは作詞をすることです。
高校生になってから詩の創作活動を始め雑誌やラジオ番組に投稿する内にその詩に曲をつけてくれる音楽仲間が彼の元に続々と集まって来てくれました。
作詞家・・・そう呼ぶに相応しいほど彼の詩には地元のバンドとかシンガー・ソング・ライターが曲をつけており、コンサートで歌われています。
今までに詩集の小冊子も5刊発表しています。
彼の詩を読むと、話をして(言葉で)伝える事が上手くできない彼のもどかしさが心の声(叫び)となって聞こえて来るような気がして感動で胸が一杯になるのです。
彼は歳を重ねるごとに自由が利かなくなってくる自分の体に「様々な困難が見えてくる」と不安を感じながら、「できる内に残しておきたい」と今も詩の創作活動を続けています。
僕はこれからもそんな彼と向き合って見守りながら親交を深めていきたいと思っています。

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N君のこと

2008-05-25 00:35:20 | 障がい者のこと

僕が障がい者の方たちと関わるきっかけを作ってくれたのは亡きN君でした。
もしもN君と出会っていなかったら、僕は今この仕事に就いてはいなかったと思います。
僕はこれまでに数回いろんなところでN君のことを紹介し、ブログにも書きました。
以前、自分のブログで「N君の生涯」と題して書いた文章を基にこの記事を書いています。
平成16年12月28日午後8時51分、一人の偉大な障がい者が肺炎の為急逝しました。
その人がN君で、彼は僕の出身地である会津若松市に障がい者の為の自立生活センターを設立する為に尽力し、初代の代表を務めそこに集う障がい者達のリーダー的な存在だったのです。
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N君は7ヶ月の早産で未熟児として、しかも仮死状態で生まれましたが、産婆さんの努力で奇跡的に命を取り戻しました。
しかし3歳の時高熱から脳性まひになってしまい、言葉がうまくしゃべれない上に下肢が不自由になりました。
障がいの程度はそんなに重い方ではなかったのですが、保育園に入る年齢になって役所から養護学校への入学を奨める話が出ました。
彼のお父さんが「養護学校に入りたいか?」と訊ねると彼は「いやだ!」と答えたそうです。
結局お父さんが彼の意思を尊重してくれたお蔭で彼は保育園から高校まで普通学校で過ごせたそうです。
お父さんが言ってくれた「お前は身体が弱いけれど皆の中で一緒に生きて行くのだから強くならないといけないよ」という言葉が彼の宝物だったそうです。
それは、彼にとっては自分の人生を自分で選び、地域の中で皆と生きて行く事だったのです。
彼は高校に入ると、「女の子にもてる強い男になりたい」と思い山岳部に入り、もつれる足で山登りもしました。
高校卒業後はバイクや車の免許も取り、専門学校で印刷技術を学び、印刷会社に就職しました。
仕事の傍ら、重度の障がい者の送り迎えをしたり相談相手になるなどのボランティア活動を通じて、多くの障がい者仲間と親交を深めました。
僕がN君と初めて知り合ったのはその頃でした。
僕は彼の自宅と同じ町内の老舗の家具店に勤務していて、家具の営業と配送の仕事をしていました。
彼のお父さんは自宅近くの病院前で従業員を一人雇い小さな花屋を営み、お母さんは自宅兼店舗の食堂を一人で切り盛りしていました。
まだ独身だった僕はいつも仕事帰りにこの食堂で夕食をとっていました。
この食堂の家庭的な雰囲気がとても好きだったからです。
N君が仕事休みで自宅にいる日曜日の夕方の時間などに僕は仕事帰りに食事しに立ち寄り、彼といろんな話をしたりする内お互いに打ち解け合うようになりました。
この頃の彼は、普段は通勤などにバイクを乗り回していましたが、不自由な身体もなんのそので健常者と全く変わらないような素晴らしいライディング・テクを披露してくれました。
更に連休には仲間と登山をしたり、一人で四駆を運転して泊りがけのアウトドア・ライフを楽しむアクティブな青年でした。
彼の行動を見ていると障がいというハンディなんて微塵も感じられませんでした。
彼の性格はとても素直で、誰に対しても分け隔てなくごく自然な態度で接し、穏かなその話し振りは誰よりもユーモアがありかつ知性に溢れていました。
僕が仕事上のことで悩んでいる時に彼の明るい笑顔と、ハンディに負けずにがんばっている彼の力強い姿を見るたびに勇気と元気を奮い起こす事ができました。
その後僕は妻と知り合い結婚を決意し、彼のご両親に仲人をお願いしました。
それ以降彼は僕達夫婦を実の兄と姉の様に慕ってくれたのです。
そんな彼も加齢に伴い体全体の筋力が急激に衰え始めました。
これは病気自体の進行ではなく、脳性まひ特有である症状のひとつなのです。
30代後半になって、車椅子が必要な生活になり20年間勤め続けた会社を辞めざるを得なくなりました。
「体が思う様に動かなくなってから、重度の障がいの人達の悩みが分かった。何とかしなければ」と思った彼は仲間に呼びかけ、地道な努力を重ねながら行政を少しずつ動かしてついに会津の地に自立生活センターを立ち上げたのです。
「障がい者はどんなに重度でも、街の中で生きたいと願っている。健常者と共に暮らせる地域社会にして行きたい」と彼は常々熱く語っていました。
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彼の死後、残念な事にリーダーを失った自立生活センターは分裂しやがて解散してしまいました。
一応それを引き継いだ形で現在のNPO法人があるのですが、自立生活センター設立時のメンバーは次々と去って行き、今では当時とかなり違う顔ぶれになってしまっています。
年老いたご両親も彼の後を追うように相次いで他界され、彼についての思い出話を語り合える相手も数少なくなってしまい寂しい限りの昨今です。
でも、彼の遺志を受け継ぐ者の一人としてこれからも彼の足跡と偉業を新しいメンバーに伝えて行くのが僕の義務だと思っています。

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障がい者のこと

2008-05-24 23:14:57 | 障がい者のこと

僕がいつも「障害者」ではなく「障がい者」と書くのにはそれなりの理由があります。
学校ではちゃんと「障害者」と教わっており、その意味も理解した上で敢えて「障がい者」と表記しています。
ですから、他人が「障害者」と書くことは否定しません。
僕はこの中の「害」という字にとても抵抗を感じているから使わないだけなのです。
「害」という字は悪いイメージを連想させる「害虫」の「害」と同じ字だからです。
現実に・・・憤りを感じる悲しい現実なのですが、障がい者を世の中の「害虫」呼ばわりして平気で差別する様な心無い人々が現実に存在しています。
信じられないかも知れませんが、これは嘘ではないのです。
大多数の障がい者の方が僕と同意見であり、最近ではそれを反映してか役所の文書とか広報誌からは「害」という字はすでになくなっているようです。
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障がい者に対して健常者であるあなたはどういうイメージを持っていますか?
障がい者を見て特別な人間だと思ったり、自分と比較して優越感を持ったり不幸だとか可哀想だと思ったりしたことはありませんか?
もしそうだとしたら、それはとんでもない大間違いです!!
障がい者もあなたと同じ人間ですよ。
ただ見た目があなたと少し違うだけのことです。
人それぞれ個性がある様にその人の障がいもその人の個性なのです。
ですから、その人の外見だけを見て決して蔑みの目を向けたりしないで下さい!
そして、その人が不幸だとか可哀想だとは絶対に言わないで下さい!
障がいは不自由であっても決して不幸ではありません。

「可哀想」は障がいを持つ人達の心を一番傷つける言葉なのです。
たとえあなたに悪気がなくてもです。
あと「障がい者なのにがんばっているね」とかも、できれば本人には直接言わない方がいいと思います。
健常者とか障がい者とに拘らずがんばる人は皆がんばっていますし、人によっては「がんばる」っていう言葉自体が好きでない人もいるかも知れないからです。
障がいを持った方との接し方については機会があれば後で書くとして、僕の今の仕事に深く関わっている障がい者のことについてこれから少しだけ書いて行きたいと思います。

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お花見会

2008-04-21 00:42:43 | 障がい者のこと

昨日は鶴ヶ城公園で「会津わたぼうし会(障がいを持つ方の集い)」のお花見会が開かれ、僕は去年に引き続き友人である幹事のやまちゃんのヘルパーとして参加させていただきました。
鶴ヶ城公園の桜は満開になって最高の見頃になり、お天気も上々でした。
さすが、やまちゃん!「晴れ男」の本領発揮です☆ミ
折りしも昨日は「鶴ヶ城桜まつり」が開催されており市役所から鶴ヶ城本丸までの神輿パレードも行われたりして、公園内はものすご~~~い人出でした( ̄Д ̄;)
公園内は全域バリアフリーになっていて車椅子2台半分位の幅に舗装された専用の通路が設けてあります。
でも、その通路にまで人があふれていました。
やまちゃんを乗せた車椅子を駐車場からお花見の場所まで200m位の距離を押して歩いたのですが、まるで通勤ラッシュ時の都心の駅の構内にいるような混雑ぶりでした。
駐車場を探すのに皆ひと苦労したと見えて、全員集合してお花見会が始まるまでは多少時間がかかりました。
久しぶりに元気な仲間達と会う事ができました。
去年の秋に大手術をしたヨッチさん(同じ沢田知可子ファンです)とも念願の再会を果たし感無量でした。
とても元気そうだったので安心しました。
参加者は去年を上回り、賑やかなお花見会になりました。
自己紹介の後仲間達と飲み食いしながら話も弾みギターに合わせて皆でフリ付の歌を歌ったりしました。
他の花見客は家族連れが多い中、なんか僕らだけ多勢で盛り上がっていたので目立っていたかも知れません。
とにかく、昨日は愉快な仲間達のお陰で超めっちゃうれしくてMAX楽しい時間を過ごす事ができましたぜ。
みんな~、ありがとべりべりさんきゅうなっヾ(〃^∇^)ノ
いがった、いがった~!めでたす、めでたす☆ミ

Sakuramatsuri

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