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田舎者ですが(^◇^)

会津の四季やローカルな話題、日常の出来事などを不定期ながら少しずつ綴っていきます。

僕の仕事のこと

2008-01-30 23:45:08 | 障がい者のこと

僕は目や体が不自由といった障がいを持つ方が地域の中で自立した生活を送れるようにサポートする仕事に携わっています。
この場合の「自立する」という事は何もかも全て自分でできるという意味ではありません。
むしろ自分ではできない部分が多いのが障がい者なのですが少しでも自分でできる事があれば、その人にとっては自立していると言えるんじゃないかと僕は思うのです。
僕の仕事はその人のできない部分を手助けしながら、できる部分の能力を更に伸ばせるように協力する事です。
それは何かをしてもらうとかしてあげるという関係ではなく一つの事を二人協同で行うという対等の関係でなくてはならないのです。
同じ人間として当然な事だと思います。
二人で力を合わせて得られた成功の喜びを共感できるこの仕事は僕にとってはもっかのところ生きがいなのです。

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妻のこと その6

2008-01-26 11:23:03 | 妻のこと

それからの妻は外出を控え、居間で横になっている時間が多くはなってきたもののしばらくは落ち着いた状態を保っていました。
しかし、3月20日の朝「苦しい、病院に行きたい・・・もう駄目かも・・・」と力なく言いました。
四度目の入院でしたが、事実それが彼女にとってはもう二度とない入院となったのです。

亡くなる三日前の朝、病室での彼女のこぼれるような笑み・・・僕が見た彼女の最後の笑顔でした。
その日の午後、彼女の容態が急変しました。
夜になって意識が朦朧となり、うわ言で「暑い・・・おいちゃん(僕の呼び名)・・・暑い」と繰り返していましたが、その声も次第にか細くなってやがてくちびるがかすかに動くだけになりました。
夜が明けた頃にはすでに彼女の意識は無くなっていました。
僕は彼女のわずかな呼吸の音に必死に耳を傾けながらもう一度目を覚ましてくれる事を祈り続けました。
時間だけがむなしく流れ、彼女の命の灯火が徐々に薄れて行くのを感じました。

ついに運命のあの日あの時がやって来ました。
病室には妻のご両親と弟と妹の姿がありました。
そして・・・医師から告げられた臨終の瞬間に涙が堰を切ったようにあふれ出ました。
平成18年4月13日午後12時38分、僕の妻は永眠しました。
その死に顔は信じられないほどふっくらとして綺麗でした。
彼女の最後の願いは元気になって僕と二人で花見に行く事でしたが、その願いはついに叶えられませんでした。

妻の葬儀の後、僕は深い悲しみと言い知れぬ孤独感に覆われ一時は彼女の後を追う事を考えました。
でも、彼女のモットーだった「どんなに苦しくても辛くても明るく前向きに生きよう」を思い出してがんばろうと思ったのです。
苦しかっただろうけれども妻もがんばったのですから・・・余命1ヶ月と宣告されたのに10ヶ月近くも生き延びたんですからね。
その10ヶ月間僕は僅かな可能性を信じながら彼女を支え続けて来ました。
不幸のどん底にいると感じていた時がありました。
でも、決して不幸じゃなかった・・・むしろ今にして思えば僕の人生では最も幸せだった10ヶ月だったのかも知れません。

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妻のこと その5

2008-01-26 11:15:03 | 妻のこと

余命1ヶ月と宣告された日から・・・
その長い1ヶ月が過ぎても妻は生きていました。
それどころか、抗がん剤の投与が功を奏したのか、ガン細胞がそれ以上広がることはなくなり8月2日には退院の許可が出たのです。
退院後はしばらく様子を見て静養しながら月に4回の通院治療を続けることになりました。
僕は彼女の体への負担を少しでも和らげる為にこれまでは交代でやってきた掃除、洗濯、買い物、炊事などの一切の家事を全て引き受けることにしました。

妻はガンの告知を受けた後で僕にこう言っていました。

「私はお義母さんから命を分けていただいたんだから当分死なないわよ。今までは自分より他人の為にっていろんな事をやってきたけど、これからは自分の為にもやりたい事をいっぱいやるわ。」
彼女は退院した後その言葉通りに習い事をしたり友人達と旅行やお食事会をしたり、
僕や妻の家族と一緒にいろんな場所に出かけました。
自分自身の為だけではなく僕達にも楽しい思い出をたくさん作ってくれたのです。
10月の初めには本人待望の仕事復帰を果たしましたが、張り切り過ぎてしばしば体調を崩したりしました。

12月19日の妻の誕生日直前に二度目の入院をしてクリスマスまでに退院できましたが、その後はずっと仕事を休み続けました。
彼女はもう一度仕事に復帰するという夢を最後まで諦めてはいなかったのですが・・・
年が明けた1月の終わり頃に妻は三度目の入院をしましたが2週間ほどで退院しました。
しかし、家にいてもあまり動くと呼吸が苦しくなるのかやや辛そうにしていました。
でも決して弱音は吐きませんでした。
彼女の奇跡と言ってもいいほどのがんばりはその後も続きました。
病気との闘いだけでなく明日までは生きられないかも知れないという不安や死に対する恐怖感とも毎日闘っていたのだと思います。


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妻のこと その4

2008-01-26 11:03:33 | 妻のこと

妻の入院はそれから1週間後の6月30日になりました。
すぐにでも入院させたかったのですが、妻から仕事の方を一応の区切りをつけて整理しておきたいという希望があって延び延びになってしまったのです。
丁度その頃、その年の初めから健康管理という目的で介護施設から妻とは別の病院に入院していた母が風邪をこじらせ肺炎になってしまっていました。
僕は忙しい仕事の合間をぬって自宅から母の病院に頻繁に通っていました。
母は食欲が無くなったために栄養剤の点滴と酸素吸入を続けていましたが、急激に体力が衰え血圧も徐々に下がってきました。
妻が入院した翌日に担当の医師からは母が非常に危険な状態にありここ二、三日が山であろうと告げられました。
妻にはその事を隠していました。
それからは仕事を休み病院に二晩続けて泊り込みをしました。
二日目には母の意識は無くなりました。
覚悟はしていましたが、三日目の7月4日の昼前に母は息を引き取りました。
僕は込み上げてくる悲しみや涙を抑えることができずに号泣しました。
翌日は妻の第一回目の抗がん剤投与の治療が予定されており、母が亡くなった日は妻にガン告知をしなければならない日だったのです。
その後は病院から許可をもらって一時帰宅した妻と妻の家族と力を合わせて母の葬儀を無事に済ませました。
の人達もみな親切に協力して下さいました。
人生は喜びだけではなく悲しみもあるんだと心の中ではいつも思ってはいましたが、これほどに大きな悲しみと喪失感は今までに経験したことがありませんでした。
でもこれから、更にこれを上回る大きな悲しみがやって来ることになるだろうなんて、その時は考えてもみませんでした。

母の葬儀の数日後に一段落ついてから病院に戻った妻に僕は勇気を出して真実を告げました。
いつも笑顔を絶やさなかった妻はこの瞬間も笑顔のままで小さくうなずきました。
その日の事を妻は日記で以下のように書いていました。
※○○は僕の名前です。

7/11(月)
○○さんから私はガンだとうちあけられた。
自分でも病名が分からないと困ると思っていた。
明日から治療が始まると先生は言う。
どんな治療かと聞いたら点滴治療だと言う。
その内髪の毛が抜けたりといろんな事がある
のでかくしておけなかったと思う。
自分の病気が何だか知らないでただ点滴を
受けるのは私としては納得がいかないだろうと
思っていた。
○○さんが持ってきてくれたノートパソコンで
ゲームをした。
負けてばかりでつまらない。
(以下略)


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妻のこと その3

2008-01-26 10:54:12 | 妻のこと

6月23日、僕は早朝からの仕事を終えて11時半頃帰宅しましたが妻はまだ病院から戻っていませんでした。
昼前に病院の医師から電話があり、「奥様のご病気についてご家族の方にもご説明したいのでこれからすぐに来ていただきたい」と言われ、急いで病院に行きました。
診察室に一人で通された僕は妻の胸のレントゲン写真を見せられ思わず息を呑みました。
まるで肺全体に小さな花が無数に咲いているように見えたのです。
妻の咳が続いていた原因はこの肺の異常からでした。
彼女の病名は「転移性肺ガン」でした。
しかも第Ⅳ期(末期)の・・・
基になっていたのは直腸にできた小さなガンだったのですが、彼女はずっと前からこれを痔だと思い込んでいて痛む場所に自分で市販薬をつけていたという事実を後から本人の話で知りました。
初めはごく小さいガン細胞でしたが、血管内に入り込んで肺に転移し全体に細かく散らばってしまったとのことでした。
この状態になってしまうと手術でガン細胞を除去するのは不可能と言うか手術そのものが死に直結してしまいます。
治療の方法としては抗ガン剤の投与でガンの進行を少しでも遅らせるしかないのですが、これも体力を徐々に消耗させるので限界があるのです。
「お気の毒ですが、奥様の余命は後1ヶ月です」と言う医師の言葉が頭の中でぐるぐると駆け巡り目の前が真っ暗になるのを感じました。
更に「早期の入院が必要になりますが、治療を始める前にご主人様から直接奥様の方へ告知なさることが必要です。とりあえず奧様には病名ははっきりしませんが内臓の疾患が原因で咳が出る難しい病気で長期の治療が必要であるという説明をしていますが、やはり真実をお話してご本人の意志を尊重しましょう。」と言われ僕は言葉もなくただうなずくしかありませんでした。

病院からの帰り道で車を運転しながら妻とどんな会話を交わしたのかはよく覚えていませんが、僕は妻の笑顔を見て涙が出そうになるのを必死で堪えていました。
妻も不安な気持ちを吹き払うようにことさら明るくふるまっていました。


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妻のこと その2

2008-01-26 10:39:17 | 妻のこと

結婚を機に亡き長兄のお嫁さんと同居していた母を引き取り一緒に暮らすことにしました。
妻は母の面倒をよく看てくれて、やれお花見だ、やれあやめまつりだ、やれ夏まつりだ、やれ菊まつりだ、やれ紅葉狩りだと事あるごとに母を誘い、三人でいろんな所に出かけました。
母もそんなそんな妻を実の娘の様に可愛がりました。
妻と母はご近所でも評判の「仲良し嫁・姑」でした。
こちらに引越しして来る2年前に母が脳梗塞を患いその後認知症になって、病院と介護施設を半年くらいずつ行き来する生活を送るようになると妻は足しげく母の見舞いに
通うようになりました。
彼女は母を車椅子に乗せて散歩に連れ出したり母の好きなじゃんけん遊びをしたりしてくれました。
母が長生きしてくれたのもこうした妻の存在があったお蔭だと思っています。

妻は仕事においても常に全力でがんばっていました。
長年勤めた呉服屋では持ち前の積極性と明るさ、人懐っこい笑顔でトップクラスのセールス・レディに上り詰めていました。
間違いなく仕事は彼女の生きがいだったでしょう。
そんな妻の体に異変が起きたのを僕が初めて知ったのは3年前の5月後半からでした。
彼女自身はそのかなり以前から体のある部分に違和感があったのを自覚していたらしいのです。
それから6月の中旬にかけて彼女は咳が連日続いていました。
彼女は風邪かも知れないという軽い気持ちから地元の総合病院の内科外来で受診しました。
そこでとりあえず胸部のレントゲン写真を撮ったのですが、彼女の話では写真を見た医師は一瞬顔色を変えてから難しい病気かも知れないので精密検査の必要があると
いう事を告げたそうです。
その日から彼女は三日連続でMRI検査、胃カメラ検査、大腸の内視鏡検査、その他の検査を受けました。
そして検査結果による最終的な診断が下される日が6月23日に決まったのです。


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妻のこと その1

2008-01-24 22:13:23 | 妻のこと

3歳年上の妻との結婚生活は20年間続きました。
妻と初めて出会ったのは結婚する3年前でした。
僕が勤めていた家具屋の向かいは呉服屋だったのですが、彼女はその呉服屋に後から入社して来ました。
初めの内は二人とも特に相手を意識することなく、朝の掃除の時間にお互いの店先から挨拶を交わすだけでした。
その状態が3年間続いたのです。
思えばそれがお見合い期間の様なものだったのでしょう。

ところが、ちょっとしたことがきっかけで彼女が僕のアパートを訪れた数日後に彼女の方から交際を申し込んで来て付き合うようになりました。
彼女は休日の度ごとに自分の車で片道30分をかけて通って来て、僕が借りている駐車場に車を置いてから僕の車に乗り込みドライブデートをしました。
交際し始めたのは春先でしたが、あっという間に熱愛状態(?)になりました。

夏には親から交際を反対された彼女が僕のアパートにころがりこんで来て同棲するようになり、結婚を真剣に考えるようになりました。
その後正式に彼女の両親に結婚の申し込みをするために意を決して彼女の家に乗り込み、あっさりと承諾を取り付けました。
すぐに話がまとまって秋には結婚式を挙げました。
婿入りが必須条件であったはずの農家の長女を嫁に
もらったのです。
僕には年老いた母の面倒を見なくてはならない事情があったからです。

その後子宝には恵まれませんでしたが、幸せな毎日が続きました。
しかし・・・やがてその幸せは運命のいたずらによって奪われ、不幸のどん底に突き落とされることになったのです。

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町の田舎

2008-01-20 10:29:04 | 日記・独り言

ここは町の外れにある田舎です。
僕が今住んでいる町は人口が1万9千人ほどで、会津盆地の西側に位置しており、会津でも有数の米どころです。
8年前に妻の実家のあるこの町に引越して来ました。
僕の家はその町外れにある田舎の小さな集落(全部で24戸)の中にあり、道路を挟んですぐ向かいは妻の実家です。
妻の実家もそうですが、周囲はほとんど農家ばかりですぐ裏には広大な田畑が広がっています。
外にでると磐梯山が良く見え、少し離れた場所には牛もたくさんいます。
引っ越して来る数ヶ月前に妻の実家で所有していた築70余年の古い作業小屋の内部を劇的大改造してマンション風の3LDKにしました。
外側からだとどう見てもただの掘っ立て小屋にしか見えませんが(~_~;)・・・とてもユニークな「田舎のマイホーム」でして、住み心地はまあまあ快適です。
エアコンをつけてないので夏場は暑くて大変ですけどね(;´Д`A ```

まあそんな訳で、とりあえずこれから身の上話的な事についても少しずつ書いて行きます。

Inakanomyhome

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はじめましてMicchiiです☆ミ

2008-01-17 02:05:14 | ブログ

ようこそ、おわいなはんしょ(いらっしゃいませ)(⌒ー⌒)ノ

ブログ人を始めたMicchiiと申します。

まだ右も左も分からない状態でキョロ<( ̄(エ) ̄;))

((; ̄(エ) ̄)ゞキョロしてます。。。

これからよろしくお願いいたします<m(__)m>

東北は福島県会津地方から四季の便りやローカルな話題、

そして日常の出来事などを少しずつ綴って行きたいと思って

います。

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