ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

アドリア海の真珠と称えられたドゥブロヴニク … アドリア海紀行(8)

2016年01月10日 | 西欧旅行…アドリア海紀行

 10月29日

 海のほとりの眺めの良いホテルに2泊し、今日は一日かけて、ドゥブロヴニクを観光する。しかも、午後は自由時間 …… 旅はかくあるべし。気持ちもゆったりし、街の歴史・文化、空気を感じることができる。

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< 「アドリア海の真珠」と称えられたドゥブロヴニク >

 ドゥブロヴニクが海洋貿易で活躍し、多くの富を集めて最も輝いたのは、15、16世紀のころである。ヴェネツィアが 「アドリア海の女王」 と称えられたのに対して、ドゥブロヴニクは 「アドリア海の真珠」 と称賛された。17世紀の大地震で、城壁とスポンザ宮殿を除いて街は一度崩壊するが、その後、再建された。

 城壁に囲まれ、海に臨む、中世そのままの美しい街並みは、今、クロアチア旅行の人気ナンバーワンである。

 1979年に世界遺産に登録された。

 しかし、1991年の内戦時には、セルビア軍によって70日間包囲され、数千発の砲弾が撃ち込まれたともいう。

 95年の内戦終結後、ユネスコの支援によって世界中から各分野の専門家がボランティアで集まり、街の修復に取り組んだ。その結果、98年には街は元通りに修復され、「アドリア海の真珠」は再びその美しさを取り戻した。

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< ドゥブロヴニクは、クロアチア共和国の「飛び地」である >

 ドゥブロヴニクは、クロアチア共和国の最南端にある。すぐ南に国境があり、国境の先はモンテネグロ共和国。国境を越えると、東ローマ(ビザンチン)帝国の文化圏である正教の国になる。

 ドゥブロヴニクには、北側にも国境がある。

  昨日、スプリットから、アドリア海の海岸線をドゥブロヴニクへ向かう途中、1カ所、ボスニア・ヘルツェゴビナ領を横切った。ここだけ、ボスニア・ヘルツェゴビナ領が西に伸びてきて、アドリア海に達している。その海岸線の巾は約20キロ。だから、クロアチア共和国の最南端のドゥブロヴニク一帯は、飛び地なのである

 前回の記述で、この奇妙な国境線は内戦によるものであろうと軽々しく推測したが、違っていた。この奇妙な国境線のいわれは、もっと歴史的なものだ。

 現在のボスニア・ヘルツェゴビナ共和国は、かつてはそっくりオスマン帝国領として組み込まれていた。オスマン帝国領が、今見るような形で、アドリア海に突き出ていたのである。

 その時代、その北側のアドリア海沿岸の諸都市 = スプリット、トゥロギール、シベニクなど = は、「アドリア海の女王」と呼ばれたヴェネツィア共和国の傘下にあって、超大国・オスマン帝国と対峙していた。ヴェネツィアは都市国家だったが、頑張っていた。

 1571年、西欧キリスト教国とオスマン帝国の海軍、双方合わせて20万人が激突したというレパントの海戦において、キリスト教国側の軍船の半分はヴェネツィアの艦隊であったが、このとき、ダルマチア地方出身の海の男たちも多数、参戦していて、ヴェネツィアと運命を共にしたのである。(塩野七生『レパントの海戦』)。  

 このころ、ドゥブロヴニクは、ラグーサと言い、ヴェネツィアの傘下を出て独立し、海洋国家として羽ばたいた。オスマン帝国に対しては、いわば朝貢関係にあった。ラグーサ共和国なりのリアリズムである。ヴェネツィアの勢力圏とラグーサ共和国との間に割って入る形で、オスマン帝国領があったのである。

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< ドゥブロヴニクは、歴史上、「ラグーサ共和国」として登場する >

 ダルマチア地方は、早くから古代ローマの一部であった。

 西ローマ帝国滅亡後は、東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の版図となるが、東ローマ帝国の力は弱く、7世紀ごろからスラブ系民族が侵入し、10世紀にはクロアチア王国を立てた。そのクロアチア王国も、やがて、ハンガリー王国に組み込まれる。

 ただ、アドリア海の海岸沿いの港々は、そもそもの起こりが、古代ローマ時代にラテン人が築いた町であった。

 故に、10世紀、ヴェネツィアが海洋貿易に乗り出したとき、その傘下に入って共に戦い、それまで多大の被害を被って来たスラブの海賊を、アドリア海やダルマチア地方の川筋、谷筋から、追い出した。

 これらの町の呼称も、シベニクは、当時はイタリア語でセベニーコであった。スプリットはスプラート、そして、今はスラブ語 (クロアチア語) でドゥブロヴニクと呼ばれるようになっているが、この港町が「中世の博物館」のような町になる前、海洋貿易によって活況を呈していた中世の時代には、イタリア語でラグーサと呼ばれていた。ラグーサ共和国である。

 ヴェネツィアはやがて、アドリア海の女王から東地中海の女王へと飛躍していく。このヴェネツィアに対して、東方貿易の市場を争って、150年の間に4度の竜虎相打つ戦いをしたのが、ジェノヴァであった。

 特に第四次ジェノヴァ戦争 (1378年) は、ひどかった。東の陸地からはハンガリー王国に攻められて、ダルマチア沿岸の港町は全て取られてしまう。ハンガリー王は、これらのヴェネツィアの基地の利用をジェノヴァに許し、ジェノヴァ海軍はアドリア海の奥深く攻め入ってきたのである。さらに、西の陸地からはパドヴァ軍が攻め入る。3方から攻め込まれ、ヴェネツィアは、リド島の内側に籠って、孤立無援の戦いを戦ったのである。

 結局は、ヴェネツィアの不屈の戦いが起死回生の勝利を生むのであるが、このころ、ラグーサはハンガリー王国に付き、やがて、ラグーサ共和国として独立し、オスマン帝国が侵攻してきたときにはこれに貢納する形で、名を捨てて実を取り、小さいながらも海洋貿易国家として全盛期を迎えるのである。

 なお、この頃には、ドゥブロブニクは、流入してきたスラブ系民族であるクロアチア人(カソリック)を受け入れ、二つの民族が共存するようになった。

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< ロープウェイでスルジ山へ上がる > 

 朝、混まないうちにと、いきなりロープウエイ駅に案内され、スルジ山に上る。

 スルジ山はドゥブロヴニクの背後にある標高412mの山。繁栄したラグーサ共和国の水源の山である。

   ( スルジ山のロープウェイ )

 なにしろ、ドゥブロヴニクはクロアチア観光のハイライトだから、朝からツァーの観光客が方々のホテルから湧きだしてくる。われらが添乗員は、ベテランでかつ賢い女性だから、いち早くロープウェイ乗り場に導き、陣取りして、たいした待ち時間もなく頂上へ。

 頂上の展望台に立つと、ガイドブックやパンフレットの写真でよく見る、城壁に囲まれた旧市街の全貌が見えた。

 城壁の長さは、全長約2キロ。要所には要塞や塔があり、高い所では海から25mの高さがある。

 城壁の上を歩いて1周することができ、その眺めは素晴らしいとガイドブックにある。午後の自由時間の最大の期待である。

 町の東側 (写真の左側) には、聖イヴァン要塞と聖ルカ要塞に守られた旧港がある。

 

  ( スルジ山から見下ろした旧港 )

   港に臨む大きな建物は、手前からドミニコ会修道院 (今は美術館)、スポンザ宮殿 (かつての税関、今は古文書館)、総督邸 (元老院などの機関も並置されていた) である。

 この港から遊覧船に乗り、紺碧の海からこの街を眺めることもできると、『地球』に書いてある。午後の自由時間の二つ目の楽しみである。

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< ドゥブロヴニクの街を歩く >

  城壁の中の旧市街には、旧港の反対側・町の西を守るピレ門から入る。門の上には、この町の守護聖人である聖ヴラボの像が立つ。

 

                ( ピレ門 )

 ピレ門の脇の城壁はいかにも高い。上にはクロアチア国旗が翻っている。

(城壁の上にたなびくクロアチア国旗)

 ピレ門をくぐると、メインストリートのプラツァ通り。

     ( プラツァ通り )

 門のすぐ左手にフランシスコ会の修道院があるが、ここには1391年に開業したというヨーロッパで3番目に古い薬局がある。一行のおばさんたちが早速、ハンドクリームなどを買っていた。(そういうことは午後の自由時間にやってほしいものである … とは決して言わない)。

 ヴェネツィアが都市国家であるように、小なりとはいえ、ドゥブロヴニクも共和国であるから、城壁の中ですべてが完結するように町は整備されている。スルジ山から引かれた水は、ピレ門を入った所の広場の噴水となり、上下水道も完備している。ペストなど伝染病が発生したときのための隔離病棟、養老院や孤児院も整備され、成文法によって統治されていた。

 石畳が美しい。これは、ドゥブロヴニクだけでなく、クロアチアに来て、ずっと感じていたことである。

   ( 市街地 )

 プラツァ通りを300mほども進むと、もう反対側の城壁近くのルジャ広場に出る。

   正面に立つのはバロック様式の聖ヴラホ教会。ドゥブロヴニクの守護聖人を祀る。

 街全体がバロックでてきている感じだ。バロックの街として最高に素晴らしいのはやはりローマであるが、ここも小なりとはいえ、美しい町である。

 ただ、ドイツの多くの教会などもそうだが、教会の中に入ると、バロック様式やロココ様式の内部装飾には辟易する。昨年、フランスのゴシック大聖堂を見て回り、この春、ブルゴーニュ地方のロマネスク大聖堂を見て回った目には、それらのもつ清らかな美しさや鄙びた美しさと比べて、バロックの装飾過多は、かなりしんどい。これは、個人の感じ方であるが、同時に、応仁の乱以後に形成された日本人の美意識でもあると思う。金箔で飾られた寺院や仏像よりも、古色を帯びた寺や、寺の跡に心惹かれ、白木のままの神社のたたずまいにゆかしさを感じる。そして、20世紀に入って、西欧諸国においても、人々の感性に大きな変化が起こった。豪華絢爛や成熟の美よりも、古拙の美や鄙びたものの美しさ、簡素なもののもつ美を好む感性が主流となってきた。人は感性においても、不変ではない。

 午前の観光の最後に、旧港のそばのレストランで昼食をとった。この時間には、小さな旧市街の中は、世界からやって来た観光客であふれ、とりわけ中国人の団体客の多さには驚く。

   ( 旧港の船着き場)

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< 紺碧のアドリア海から、ドゥブロヴニクを遠望する >

  天気は良いが、風が強く、波が高い。

 船酔いしたら苦しいだろうと、ちょっとためらったが、思い切って海上遊覧に参加に手を挙げた。添乗員のSさんがレストランの主人に掛け合ってくれる。レストラン経営に加え、遊覧船も経営しているようだ。海が荒れて、客が減り、午後は出航しないつもりだったらしい。

 大丈夫かな? と思われるような小型の船に、参加者はわずかに6名。接岸している岸辺ですら、船は激しく揺れている。カメラをしっかり手にし、出航する。

 

          ( 出 港 )

 船の進む前方は見ない。遠ざかる街の方へカメラを構える。

 揺れが大きく立っていられないから、床に腰を下ろして、ファインダーの狙いを定める。

 船は、横波を食らわないよう、波に対して直角に進む。

 大波に直角に当たり、乗り上げる。前方を見ていないから、不意打ちである。

 体全体が跳ねとばされるように持ち上がる。

 波だけが写っている。

 船酔いするような、優雅な航海ではない。

 

    ( 海の中にいる!! )

 それにしても、紺碧のアドリア海に、不沈戦艦のように浮かぶラグーサ共和国の大城壁と赤い屋根の家並み。カッコいい。遥々と来たかいがあった。

          ( ラグーサ共和国だ!! )

 さらに街から遠ざかり、波頭に浮かぶドゥブロヴニク。そして、スルジ山。

 この辺りから船は引き返した。 

 

 (波頭に浮かぶドゥブロヴニクとスルジ山)

  出航して約1時間。無事、港に帰ってきた。ただただ、感動 みなさん、参加すれば良かったのにネ。

 よく見ると、こんな荒れた海で、突堤から魚を釣っている人がいる!! 西欧人も、もの好きだ。

 

    ( 旧港に帰る )

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< 城壁を歩く >

 城壁の上は、守備側の兵士たちの戦いの場。そこは要塞の一部である。

 ヴェネツィアのように広大な潟で守られた水の上の都ではないから、城壁を破られ、町に攻め込まれたら、どうしようもない。ここは最後の防衛線なのだ。それにしても、これだけのものを造るのは、並大抵ではなかろう。

( 城壁の上は守備兵たちの戦いの場 )

 城壁の上からは、街並みや、教会のたたずまいもよく見える。

 下の写真は、メインストリートのプラッツァ通り。通りの左側の建物は、薬局のあるフランシスコ会修道院だ。

( メインストリートのプラッツァ通り )

  空は晴れ、風は心地よく、海に臨んで開放感があり、赤い屋根の街並みはエキゾチックで美しい。ルンルン気分で歩く

  城壁の外に、小さな谷を隔てて、ロヴリイェナツ要塞があり、街を守護している。

 

  ( 右側にロヴリイェナツ要塞が見える )

 

       ( 大砲と、ロヴリイェナツ要塞)

  ( ロヴリイェナツ要塞遠望 )

 今は快適な散歩道となった城壁の道を行き、途中、カフェがあって、コーヒーを飲んだ。トイレも借りる。

 旧港付近まで来て、聖イヴァン要塞の辺りから、旧港を写す。

   ( 旧港の風景 )

 海の反対側までやって来た。赤い屋根が続き、所々に教会の円い塔があり、遠くに港が見え、海には島が見える。

 アドリア海は島だらけだ。だから良港ができ、海賊も隠れやすい。

 そういえば、ドゥブロブニクは「魔女の宅急便」や「紅の豚」の舞台として使われたという。

  ( 小さな島がちらばる )

  1周して、城壁を降りると、日が傾き、もう集合時間だった。

 満足した。

 このままこの町のテラス席で、ワインを傾けながら夕食を食べ、やがて夕暮れとなり、ライトアップされたこの街を少し歩いて、それからタクシーで海辺のホテルまで帰っても良かったが、そうした方が、もっと街の空気を感じることができると思ったが、添乗員はそうしてもよいと言ってくれたのだが、本当は一緒に帰ってほしそうだったので、行動を共にした。

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 この旅も、明日で終わる。

 明日は、バスで、ボスニア・ヘルツェゴビナに入り、夜、首都サラエボから飛行機に乗って、イスタンブール経由で、明後日の夕方に関空へ着く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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