オスマン帝国がロードス島に大軍を侵攻させる直前、聖ヨハネ騎士団長は、出先であるコス島の砦に決戦前の最後の指令を伝える軍船を派遣した。
派遣されたアントニオ、オルシーニら若い騎士たちは、コス島を守備する同僚たちとの打合せを終え、ロードス島への帰路についた。
「アントニオとオルシーニを乗せた快速ガレー船は、帰途も終わりまぢかになって漕ぎ手も勢いづいたのであろう。西の水平線に姿をあらわしたロードス島が、ぐんぐんと大きさを増す。
船はアントニオも聴いて知っているリンドスの神殿跡を望む頃には、舵を北に切った。このままロードス島の沿岸を航行して首都の港に入るのが、東からくる船の常の航路になっている。
リンドスの丘の上に白く輝く古代ギリシャの円柱の下には、騎士団の城塞があるが、そこで勤務することは自分にはもうなさそうだと思いながら、アントニオはそれを見上げるのだった」 (塩野七生『ロードス島攻防記』から)。
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< 古代遺跡と群青の海 >
白い家々の中の道を抜け、岩場に造られた石の階段を上がっていくと、アクロポリスの丘の「入場口」があった。入場料を払い、いよいよ丘の上へと登っていく。
しばらく行くと、狭い階段の横の岩壁に彫られた三段櫂船のレリーフがあった。
エーゲ海の北端の島、サモトラケ島から出土した「サモトラケのニケ像」と同じ作者が刻んだものではないかと言われている。
ニケは、現代オリンピックのメダルの表側に描かれる勝利の女神である。スポーツ用品店の会社「ナイキ」も、ニケのことだ。
「サモトラケのニケ像」は、今は、パリのルーブル美術館にある。
個人的好みでいえば、ルーブル美術館の中で、「ミロのヴィーナス像」よりも、ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」よりも、この作品がいい。
2階から1階へ階段を降りていると、サモトラケのニケ像は、まるでスター登場というふうに、少し離れた中2階のテラスに姿を見せる。1階のフロアからも、大勢の人たちがこの「スター」を見上げている。
像の高さは2.75m。台座の三段櫂船が2.01m。土台が0.36m。テラスに一人立つ姿は、圧巻である。
多くの研究者は、「サモトラケのニケ像」の船と土台部分がロードス産の大理石で、ロードス島で制作されたと考えている。だが、ざくっと彫られた船の部分と違い、繊細な衣の襞を含む女神像も、ロードス島の同一の制作者によるものなのかどうか、その確証がないらしい。
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アクロポリスの丘を囲む城壁が現れ、岩場に造られた階段を上っていく。
天気は極めて良く、ひと休みしたいが、その陰もない。
まもなくアクロポリスの丘の上に出た。
さらに、石の大階段を上がって、丘の上の一段高い所、これより上は空という所まで上がった。
この礎石や石柱群によって囲われた一角が、BC300年ごろに建設されたアテーナ・リンディアの神殿の趾であろう。かつて神殿の中にはアテーナ女神像が祀られていた。
アテーナ神殿の位置からも、群青の海が見える。
神殿から石の大階段を降りると、海を見下ろす柱廊がある。見学者たちが列柱の下、遺跡の石の上に一列に腰かけて、海を眺めて休んでいた。
振り返ると、降りてきた大階段があって、アテーナ神殿へと導かれるようになっている。
海面から116m。そそり立つ岩山の上に造られた聖なる古代空間である。
エーゲ海の昼の日差しは明るく、遺跡群と、遺跡の下に広がる青い海は、時の流れの中にできたエアポケットに封じ込められたように静かだった。
丘の上には、他にも神殿の趾や、廃屋となった中世のキリスト教教会や、聖ヨハネ騎士団の城塞の一部などがあった。
城壁の角から見下ろすと、入り江がハート形になっているのが見える。それで、人気の撮影スポットのようだが、無理な姿勢で撮影しようとすると、危ない。
ロードス島は、オスマン帝国の400年に渡る支配の後、1912年から45年にかけて、イタリアに支配された時期がある。ムッソリーニの時代とも重なる。
このとき、リンドスのアクロポリスの復元作業が行われた。アテーナ・リンディア神殿もこの時に復元された。今、建っている柱廊や柱も、多くはその時に復元されたものだ。
だが、ウィキペディアに、「現代の基準からすると、この復元は出土したものに関する十分な検証もせずに行われており、損害を与える結果になっている。近年、ギリシャ文化省の監督の下で、国際的な考古学チームが正しい復元と保護のために働いている」とある。
イタリアは、向こうの遺跡の石をこっちの石とつなぎ合わせたり、コンクリートを使って復元作業をしたりしたという。
そのころのイタリアは、ローマ帝国の後継者を夢見ていたのかもしれない。
ゆえに、今の神殿の姿や柱廊の姿が、ギリシャ時代、ヘレニズム時代、ローマ帝国時代の本当に正確な再現だと思って見ない方がいい。
ただ、私のような見学者は、考古学上の興味があるわけではなく、これがA神殿の趾、ここがローマ時代のB遺跡などと、いちいち確認したいわけでも、こと細かな細部に興味があるわけでもない。
ただ、ここに、悠久の人間の歴史のあとを感じ取ることができれば十分である。
だから、遺跡の一部を復元することによって、太古の姿を生き生きとイメージできるようになったのはうれしいが、それは象徴的な「遺跡の一部」だけでよい。
たとえ、できうる限りの検証をしたうえであっても、埋もれた礎石を掘り起こし、倒れて遥かな歳月を経た石の柱をもう一度立たせることにどれほどの意味があるだろう。「復元」が、考古学の最終目的であるのはおかしい。
「シチリアへの旅」の「牧歌的な古代遺跡セリヌンテ」にも引用したが、
かたはらに/秋草の花/語るらく/
滅びしものは/なつかしきかな
(若山牧水)
である。
ひとしきり丘の上を歩いているうちに、エーゲ海の風に吹かれて汗も引いた。
船に戻る前に昼食を取らねばならない。それに … 体内の水分は汗で出てしまったとはいえ、トイレにも行っておきたい。
丘を少し下りかけると、かつては丘を囲繞していた聖ヨハネ騎士団の城壁が現れて、壮観だった。
来るときは白い家々の中の道をたどったが、帰りは海を見下ろしながら歩く海側の道を下った。
海側の道は、野の道である。
野の道は、ロバが歩く道でもあるようだ。海とともに絵になる。
おシャレなレストランがあったので、ここでおそい昼食をとることにした。
海を見下ろすテラスのテーブルには、可憐な野の花が一輪。
鄙(ヒナ)には稀なハイカラなレストランだと思ったが、メニューはギリシャ語だけで全くわからなかった。
注文を聞きに来た若者と片言の英語で話しても、全く通じない。
やむを得ず、隣のテーブルの人が食べているものと同じものをと頼んだが、それもなかなか通じなかった。
待っても、なかなか料理が出てこない。通じているのかどうか心配になる。出航時間が迫ってきて、焦った。
あわただしく食べ、急ぎ足で下って、なんとか出航の時間に間に合った。
行きの家々の白い壁の間を抜ける小道も良かったが、帰りの野の道は、また違った趣があって、楽しかった。
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< ロードス・タウンへ >
船はリンドスの埠頭を離れた。ロードス・タウンへと進路を北へ取る。
遠ざかって行くアクロポリスの丘。
その下の白い家並みの左端の建物が、食事をしたレストランだ。
遺跡として、アテネのアクロポリスほどには整備されていないが、その分、リンドスの丘の方が遥かな歴史の趣のようなものを感じることができた。
何といっても、遺跡群から海を見下ろすところがいい。
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途中、2カ所の海岸で短時間、停泊した。
そのうちの1つの小島の断崖は、映画「ナバロンの要塞」のロケ地であったという。そういえば、嵐の夜、海から岩壁をよじ登る場面があったが、それにしては規模が小さいと感じた。
海岸近くで、船から梯子が下ろされ、待ちかねたように、船中の男女が海で泳いた。
ヨーロッパの人たちは、太陽の光や海が大好きなのだ。
船には更衣室も、シャワーもない。船に上がると、椅子に腰かけて、塩水の付いた肌を水着ごと乾かしている。
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ロードスの城塞が見え、船はマンドラキ港の、朝、繋留していた場所に戻った。
まだ、午後5時半。
日没は8時だ。ホテルに帰るには早すぎる。旧市街に行ってみよう。
( このあと、次回へ )