これまでネオテニーについては触れてこなかったし、あんまり深く考えてないんで簡単に。
種が取り得る最強戦略の表現を大人と仮定し、これに対するネオテニーを最適戦略の一種と理解することが可能なら、この辺りの議論は、カワイイという価値観と関係するかも知れない。
既述の通りカワイイは子供属性であり、だからこれまでは成長という視点を重視して、そこからカテゴリーを越えたさらなる議論の展開はしてこなかった。AKBの実態を見ても、それで特段の齟齬は生じてなかったように思う。
けれども、話をもう少し込み入らせるべきなのかも知れない。人類の進化がネオテニーによるという仮説は存在するし、その人類の中でも、我々東洋人のネオテニーが最も進んでるとする仮説も存在する。そんな極東の日本にカワイイ文化が出現することには、平和であること以上に根源的な理由を問うべきなのかも知れない。
もちろん、日本以外のアジアに、明確なカワイイ文化は存在しなかったという意味で、平和が必要条件であった可能性は極めて高い。略奪と破壊と殺戮が蔓延する世界では、最適戦略以前の最強戦略すら無力だったろうことは想像に難くない。
けれども平和であれば、カワイイ文化が自然発生するものかどうかが分からない。そもそも日本でしか生み出されなかったのだから、比較評価すらできず、その自然史というか、平和以外の条件設定がまったく分からない。
ネオテニーが確かに最適戦略の表現だったとして、そのネオテニーが最も濃いのが日本だったとして、その日本文化にネオテニーの集団的記憶のようなものが働いた可能性はないか。あるいはもっと直裁に、ネオテニーが必然的に子供属性と連動することになったのではないか。そんな最適戦略の文化表現の一つとして、カワイイは現れるのではないか。
日本文化の特性として、何でも受け入れ、学びながら、それを改良し、自分のものにして行くというのがある。和魂漢才とか和魂洋才とか、八百万の神々とか、みんなそう。考えてみれば、そんな日本文化の特徴自体が子供属性なんであり、同時にそれが、文化における最適戦略でもあることに気づける。
日本文化とはネオテニーの文化表現なんであり、そこに必然的にカワイイ文化は付属して現れる、そういう理解が可能かも知れない。
議論が雑だけど、これは我ながらオモシロい議論なんで、時間が取れる時に気が向いたらまたということで。
種が取り得る最強戦略の表現を大人と仮定し、これに対するネオテニーを最適戦略の一種と理解することが可能なら、この辺りの議論は、カワイイという価値観と関係するかも知れない。
既述の通りカワイイは子供属性であり、だからこれまでは成長という視点を重視して、そこからカテゴリーを越えたさらなる議論の展開はしてこなかった。AKBの実態を見ても、それで特段の齟齬は生じてなかったように思う。
けれども、話をもう少し込み入らせるべきなのかも知れない。人類の進化がネオテニーによるという仮説は存在するし、その人類の中でも、我々東洋人のネオテニーが最も進んでるとする仮説も存在する。そんな極東の日本にカワイイ文化が出現することには、平和であること以上に根源的な理由を問うべきなのかも知れない。
もちろん、日本以外のアジアに、明確なカワイイ文化は存在しなかったという意味で、平和が必要条件であった可能性は極めて高い。略奪と破壊と殺戮が蔓延する世界では、最適戦略以前の最強戦略すら無力だったろうことは想像に難くない。
けれども平和であれば、カワイイ文化が自然発生するものかどうかが分からない。そもそも日本でしか生み出されなかったのだから、比較評価すらできず、その自然史というか、平和以外の条件設定がまったく分からない。
ネオテニーが確かに最適戦略の表現だったとして、そのネオテニーが最も濃いのが日本だったとして、その日本文化にネオテニーの集団的記憶のようなものが働いた可能性はないか。あるいはもっと直裁に、ネオテニーが必然的に子供属性と連動することになったのではないか。そんな最適戦略の文化表現の一つとして、カワイイは現れるのではないか。
日本文化の特性として、何でも受け入れ、学びながら、それを改良し、自分のものにして行くというのがある。和魂漢才とか和魂洋才とか、八百万の神々とか、みんなそう。考えてみれば、そんな日本文化の特徴自体が子供属性なんであり、同時にそれが、文化における最適戦略でもあることに気づける。
日本文化とはネオテニーの文化表現なんであり、そこに必然的にカワイイ文化は付属して現れる、そういう理解が可能かも知れない。
議論が雑だけど、これは我ながらオモシロい議論なんで、時間が取れる時に気が向いたらまたということで。