やっと時間が取れて、音楽熱帯夜版AKB48@SBDを見てる。時系列に多少の前後があるようだけど、それは因果関係がより明確になるようにという意図での編集であり、「演出」ではないのが分かる。「Show must go on」では、演出意図という名の、ある種の歪みによって結果的に隠蔽された事実が見えてくるように思う。
1日目の反省会で秋元康にダメ出しされた後、たかみなの「死ぬ気でやりましょう」が共同体意識として共有された結果が、2日目の「死屍累々」だったことがシンプルに分かる。たかみなが命令したわけではない。メンバーも命じられたから従ったのではない。たかみなが共同体意識の代表だからなのであり、皆がその意志を自らのものとした、そういうことなんだと思う。
結果として、メンバーはそれぞれの個を超えてしまった。共同体としての意志が自身の意志となり、リミッターが外れてしまった。表現がきつくなるけど、自己犠牲、利他行為が徹底されてしまった。あっさんの過呼吸発作も、この共同体意識の重圧であったことが見えてくる。センターとして、一人の人間が背負える許容量を遥かに超えたものがのしかかってしまった。これに耐え得る人は誰もいない。
柏木由紀が、限界を超える「快感」について語っていたけど、それは確かにランナーズハイ的な要素もあっただろうけど、それ以上にこの共同体に殉ずる快感だったのではないかと思う。過激に言えば、「皆喜んで死んで行った」ということ。
そう、この行動様式は、敗戦以前の日本人のそれに極めて近い。様々なフィクションにまみれて見えにくくなってるし、悪意も含めてそういうごまかしがはびこってるけど、当時のことを当時の意識で語ってくれる方々に共通するのが、この共同体意識だと感じた。それは、敢えて言おう「誰かのために」という意識。子供のため、両親のため、郷土のため、お国のため。愛する人のため。事実として当時の世界はそういう世界だった。
「誰かのためにプロジェクト」は、しかしそのような色づけはされているようには見えない。1日目のダメ出しをした時の秋元康にも、奇妙なくらいにAKBの共同体意識に対する働きかけ、あるいは認識を臭わせていない。でも「スイッチ」を推したのは間違いなくこの人。ここから先は書かない方が良いんだろうけど、秋元康が確信犯だとしたら・・・、それは時に仄見えるように思うんだけど、恐ろしい人なのかもしれない。恐ろしい人なんだろう。少なくとも相反する二面性を隠し持った人なのかもしれない。そして私の秋元康に対する関心も、この辺りにあるのかも知れない。
1日目の反省会で秋元康にダメ出しされた後、たかみなの「死ぬ気でやりましょう」が共同体意識として共有された結果が、2日目の「死屍累々」だったことがシンプルに分かる。たかみなが命令したわけではない。メンバーも命じられたから従ったのではない。たかみなが共同体意識の代表だからなのであり、皆がその意志を自らのものとした、そういうことなんだと思う。
結果として、メンバーはそれぞれの個を超えてしまった。共同体としての意志が自身の意志となり、リミッターが外れてしまった。表現がきつくなるけど、自己犠牲、利他行為が徹底されてしまった。あっさんの過呼吸発作も、この共同体意識の重圧であったことが見えてくる。センターとして、一人の人間が背負える許容量を遥かに超えたものがのしかかってしまった。これに耐え得る人は誰もいない。
柏木由紀が、限界を超える「快感」について語っていたけど、それは確かにランナーズハイ的な要素もあっただろうけど、それ以上にこの共同体に殉ずる快感だったのではないかと思う。過激に言えば、「皆喜んで死んで行った」ということ。
そう、この行動様式は、敗戦以前の日本人のそれに極めて近い。様々なフィクションにまみれて見えにくくなってるし、悪意も含めてそういうごまかしがはびこってるけど、当時のことを当時の意識で語ってくれる方々に共通するのが、この共同体意識だと感じた。それは、敢えて言おう「誰かのために」という意識。子供のため、両親のため、郷土のため、お国のため。愛する人のため。事実として当時の世界はそういう世界だった。
「誰かのためにプロジェクト」は、しかしそのような色づけはされているようには見えない。1日目のダメ出しをした時の秋元康にも、奇妙なくらいにAKBの共同体意識に対する働きかけ、あるいは認識を臭わせていない。でも「スイッチ」を推したのは間違いなくこの人。ここから先は書かない方が良いんだろうけど、秋元康が確信犯だとしたら・・・、それは時に仄見えるように思うんだけど、恐ろしい人なのかもしれない。恐ろしい人なんだろう。少なくとも相反する二面性を隠し持った人なのかもしれない。そして私の秋元康に対する関心も、この辺りにあるのかも知れない。