三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「Gertrud」(邦題「ゲアトルーズ」)

2022年01月06日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「Gertrud」(邦題「ゲアトルーズ」)を観た。
 
 監督のカール・テオドラ・ドライヤーを知らなかった。1889年生まれで、映画が誕生した頃だから、映画の歴史とともに生きてきた人物であるといっていい。本作品は1964年の発表だから、ドライヤーが75歳のときである。その年齢で製作したにしては、随分と艶っぽい物語だ。
 
 タイトルの「ゲアトルーズ」はヒロインの名前だが、何度聞いても「ゲアトルー」としか聞こえない。自由奔放なゲアトルーは、肉欲と愛と孤独に悩む。それにしてもこの女優さんは上手い。相手を見るでもなくカメラ目線でもなく、どこか上の方を見ながら愛や孤独を語るが、頭の中で想像しているのが生々しいセックスであることが強く伝わってくる。
 どうして夫とは駄目で、若い愛人とだったら満足するのか。大きさ?硬さ?持続力?回数?それともテクニック?などと、よからぬ想像がどこまでも膨らむ。しかしゲアトルーが話している言葉は、もう愛していないとか、愛していると言ってとか、要するに身体も心も満たされなければ幸せじゃないと主張する。
 
 自由なゲアトルーを取り巻く、情けない男たち。社会的な地位や才能があっても、ベッドや言葉で満足させないと、容赦なく捨てられてしまう。しかし男たちはゲアトルーに執着する。ゲアトルーはよほどの床上手だったのだろうか。夫はセックスレスでいいから、愛人を作ってもいいから、そばにいてくれと懇願する。ゲアトルーがそれほど床上手ではなかったということなのか、それとも妻に逃げられた大臣はシャレにならないという世間体か。
 
 ゲアトルーの男性遍歴は、その性欲の強さだけが理由ではない。生きた時代である。女が自立して生きていけるようになったからこそ、男性遍歴ができる。そうでなければ大人しく夫の言うことを聞くしかない。本作品は愛と孤独についての台詞が殆どを占める会話劇だが、その背景には女の自立と女の欲望という、発表当時にしては相当にセンセーショナルであっただろうテーマが隠されている。ドライヤー監督の遺作にして集大成という謳い文句も、あながち間違いではない。
 映画としては退屈で面白みには欠けると思う。作品を理解するだけなら原作を読めばこと足りるが、美人なんだかどうだかよくわからない主演女優の、全編を通じた上の空のような演技と、そこはかとない妖艶さを楽しむには、映画を見るほかない。なんとも言えない悩ましい作品である。

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。