憲法記念日です。世界大戦の後に「戦争放棄」と「武器の不所持」を謳った憲法を公布、施行したことは日本が最も世界に対して誇れる勇気のひとつでありました。1946年に公布、1947年に施行されたこの憲法を当時の人々がどれだけ重視していたかは、施行の翌年1948年の祝日法によって公布日の11月3日を文化の日、施行日の5月3日を憲法記念日と定めたことによっても明らかです。
それが最初にケチがついたのが1951年の吉田茂による安保条約、次が岸信介による新安保条約です。米軍駐留を認めるこれらの条約は、憲法の理念である「戦争放棄」と「武器の不所持」を踏みにじるものでありました。岸の孫が安倍晋三、吉田の孫が麻生太郎で、隔世遺伝でもないでしょうに、いま再び憲法の理念を踏みにじろうとしています。
憲法を変えようとするなら具体的に内容に関わる深い議論が必要なことは、すべての人が声を大にして言っていることで、「戦後レジームからの脱却」などと小泉流の二番煎じみたいなワンフレーズは何の理由にもなりません。「レジーム」という言葉は、かつて高校で世界史の授業を受けたときにフランス革命以前の体制を「アンシャンレジーム」と習った通り、「旧体制」を意味するものであって、戦後から政治体制が何も変わっていないこの国で何が「レジーム」なのか、さっぱりわかりません。戦後民主主義については詳しくは知りませんが、要は「もう人を殺したくない」という魂の叫びのようなものが雰囲気として充満している中で生まれたものであったはずです。だから戦後民主主義から脱却したいという安倍の魂の叫びは「再び人を殺したい」という悪魔のそれであって、見知らぬ人を殺す精神異常の殺人鬼と全く同じです。日本は殺人鬼を首相に戴いている異常な国なのです。
ブッシュが史上最悪の殺人鬼であることは世界中の誰もが知っていることですが、安倍もまたそれに習おうとしているようです。それとも戦犯であったおじいちゃんの異常な意志を継ごうとしているのでしょうか。
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かつて谷川俊太郎が作詞し武満徹が作曲した「死んだ男の残したものは」という歌が語る戦争の本質について、いまや多くの日本人が理解を放棄しているようです。ジョンレノンがあれほど「考えても見てくれよ・・・」と言って世界に向けて歌った歌も、日本人の心に届くことはなかったのです。沖縄で安倍の応援する候補が参院補選に勝ち、石原慎太郎が大差で三選を果たすこの国は、再びあの悪夢に向かって走ろうとしています。
国の防衛? たしかに誰もが人を殺したくないし、殺されたくもありません。しかしもし殺されそうになったらどうするか? そのために武装するんだと。しかし、考えても見て下さい。誰が殺しに来ますか? 北朝鮮が来る、中国が来る、もしかしたらイランやロシアが来るかも、そんなふうに考えるのであれば、日常の中で無差別殺人鬼に遭う可能性についても考えなければなりません。または無謀な運転者によって事故の犠牲になるとか、無茶な営業体制の中で仕事を強いられた電車やバスの運転手によって起こった事故の犠牲になる可能性についても、考えなければなりません。これらの確率は実は、北朝鮮が攻めてくる確率よりもずっと高いのです。ならば防衛するか。防衛するなら警棒やスタンガン、または催涙スプレー、ワイヤなどを持つとか、もっと手っ取り早く拳銃で武装するといった方法があります。でも日常的にそんなことは誰もやらないし、非効率的ですよね。警棒や拳銃を持っていても奪われたらどうしようもないし、持っていない方が却ってよかったかもしれない。小手先の防衛策を行うよりも、社会全体に犯罪を起こしにくい風潮を作る努力をした方が、回り道のように見えて、結局は根本的な解決に至る唯一の道かもしれません。また、世の中が物騒なことを政治のせいではないと勘違いしている人もいるかもしれない。政治のせいなんですよ。アメリカのように銃が解禁されたら日本での殺人は数十倍になるでしょう。誰もが使ったことのない道具を見たら使ってみたい衝動に駆られます。またこれまでよりも性能のいい道具があれば、やはり使ってみたいと思うでしょう。武器が暴力を誘発するのです。日本はこれからも銃を禁止し、警官を増員して取締りを強化し続けるべきで、アメリカのように殺人が日常茶飯事になることは断じて避けねばなりません。警察は行政なんです。アメリカの暴力社会は銃器武器のメーカーに動かされた政治が生み出したものなのです。合衆国大統領は就任の際に聖書に手を置いて誓います。その聖書の中には、どのような辱めも暴力も甘んじて受け、一切の抵抗をしないまま、自分を辱め暴力を加え果ては殺そうとする人々のために祈るキリストの話が書かれています。だから普通のクリスチャンならブッシュによって聖書が辱められ蹂躙されたと感じるでしょう。アメリカとはそんな嘘とごまかしで成り立っている自分勝手な守銭奴たちの国なのです。
もし日本で防衛の必要性を言うなら、具体的に誰かが誰かに対して暴力を振るったり殺人を犯したりする必要があります。武器での防衛はすなわち暴力であり殺人であるという必然から逃れるすべはありません。では、誰に人を殺させますか? 自衛隊員ですか? それはもしかしてあなたの夫や息子の自衛隊員ですか? もしかするとまだ18歳のあなたの娘の自衛隊員ですか? その人たちに殺人を犯せと、誰が命令するのですか? 自分の夫が殺人を命じられて、妻はどうすればいいのでしょう? そもそもいったい誰が、見ず知らずの外国人を殺したいと思うでしょうか? 誰が外国までのこのこ出かけていって、見ず知らずの外国人に殺されたいと思うでしょうか? 「小規模の核兵器」でもって、見ず知らずの外国人を大量殺戮したいと、誰が思うのでしょうか? 自分の息子に銃を持たせて、外国に出向いて片っ端から殺してこい、と命ずる親がどこにいるでしょうか? これらの理不尽を実行することで始めて成立する国の防衛が、本当に必要なのでしょうか?
国際社会から認められる「普通の国」になるのだと武装論者は言います。しかし、バイクにノーヘルで二人乗りして木刀やスタンガンを振り回す少年たち比べて、鞄に教科書を入れて登校する普通の高校生の方が人格的に劣っているという人がいるでしょうか? ポケットにスタンガンを忍ばせたりベルトにサーベルワイヤを仕込んでおいたり、あるいはホルダに入った特殊警棒を腰に下げたサラリーマンを、そうでないサラリーマンに比べて立派だと、そんなふうに思う人がいるでしょうか? 普通の人の普通の感覚ならば、護身用具を日常的に持ち歩いている人はちょっと異常な人でしょう。それが国の話になるととんと本質を見失ってしまう。武器を持っている国の方が持っていない国より立派でしょうか? 核兵器を持っている国は立派な国なのでしょうか?
人類の歴史は「たたかい」の歴史でありました。今もそうでしょう。しかしそれが「殺し合い」の歴史であることから、そろそろ脱却してもよいのではないでしょうか。それこそが20世紀を支配して人類全体の品格を落とした「アメリカレジーム」からの脱却であると思います。その端緒となったのがとりもなおさず日本国憲法第9条であることを、私たち日本人は知っておく必要があります。9条は実は、2000年前も今も人類の最先端にある画期的な理念なのです。もし自分が殺されそうになって、殺されないために人を殺すしかないのなら、私たちは人を殺すことを拒否し、甘んじて殺されましょう。私たちは殺人者と同じ高さに自分自身を貶めることはありません。もしキリストが十字架にかけられることを拒否し、周囲の人を皆殺しにしたら、誰が彼を愛するでしょう? 誰が彼を尊敬し信仰するでしょうか?
2000年前の勇気ある人の理念をそのまま理想として掲げた日本国憲法は、本来は聖書に手を当てて誓った男によってこそ守られねばならないはずなのです。