駅のホームに立っていて通過列車が迫ってきたとき、あるいは大通りの長い歩道橋から真下を走る自動車を眺めているとき、またはマンションの高層階の手摺から下を見下ろしたときなど、思い切って飛び降りてしまおうかという衝動に駆られるのは私だけではないと思います。機会があれば早く自殺したい。十代の頃は四十歳を超えて生きていることはないと思っていました。歳を取ってなお生き続けるのは生に執着する浅ましさそのものだと考えていたのです。しかしその頃はまだ、人生は生きるに価するものだと思っていました。
その後のさまざまな経験を経て人生に意味などないことや、人間が度し難く救いがたい存在であることをつくづく実感した後も、依然として生き続けている私自身は、なんとも整合性に欠ける間抜けな存在です。そして間抜けなりに考えることは、何故私は生き続けているのか、ということです。何故私は生き続けているのか?
オーパスワンというワインを買いました。フルボトルで1本23,940円。結構な高級ワインです。まだ飲んでいません。帰宅が夜中の12時ですのでその時間からフルボトルのワインを飲む気にはなりません。シャワーを浴びてビールを一杯飲んでインターネットのニュースを少し見て寝るのが精一杯です。そうやってオーパスワンを飲む楽しみが先延ばしされる訳です。実は私が性懲りもなく生き続けている理由がこのことに象徴されていまして、本当に他愛もない、つまらないことにすがりついて生きているのです。仕事然り、人間関係然り、競馬然りです。ドストエフスキーだったと記憶していますが、ワインの利き酒ができることを生涯の自慢、生きるよりどころとしていた男について書いていました。それがなかったら生きていけなかったであろうと。
馬券が当たったとか、ゴルフのスコアが上がったとか、仕事がうまくいったとか、新しい洋服を買ったとか、家を新築したとか、そんな僅かな些細なつまらないことを生きがいにして、何とか自殺せずに生きているわけです。人間はクズですが、クズなりに生きがいがないと生きていけません。それをわざわざ奪い取るものではありません。だから法で禁じています。曰く、人を殺してはいけない、泥棒してはいけないという具合です。
しかしこの国の政府は僅かな生きがいさえも奪い取るんですね。それも見境なしです。身体障害者や高齢者といった社会的弱者も例外ではありません。身体障害者自立支援法という天下の悪法を作って、身体障害者を追い詰めています。援助を減らせば自立するだろうという理屈ですから、常識と精神構造を疑いたくなります。老人についても然りです。援助を減らせば自分で頑張るだろうという見殺し政策なのです。沖縄の辺野古基地について、キュウマとかいうバカが「戦争をするための基地ではなく、戦争をしないための基地だから」という論理的に破綻していることが明らかな発言をいけしゃあしゃあとしていました。
そんなバカの集まりに、一生懸命働いて収めた税金を託さねばならないのかと思うと、月に向かって吼えたくなるくらい頭に来ます。人間はみなクズで、私もクズのひとりですが、他人のささやかな僅かな些細な生きがいを奪うことは決してしないつもりです。せめてそれくらいの矜持を、クズなりに持って生きていたいなと、そう思っています。
明日はオーパスワンに合うローストビーフでも作って、ゆっくりダービーの予想をしようと計画しています。ローストビーフがうまくいったらダービーも当たりそうな気が・・・・