犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ワタミ過労自殺裁判について(10)

2013-12-23 22:54:13 | 時間・生死・人生

 過労自殺に追い詰められないためのメンタルの強さとは、現場で鍛えられて成長して身につける種類のものではなく、もっと質の悪い処世術の一つだと感じます。また、現代の複雑な社会を生き抜くためのストレス耐性とは、「人間が生きて働いて生活する」という基本の論理とは方向性がかなり違っており、それ自体の価値を深く追求することは無意味であると思います。

 社会は不条理なことばかりであり、組織というものは理不尽が正論を凌駕する場所です。そして、生身の人間は、これを正面から受け止めてしまえば潰れます。ここにおける打たれ強さとは、労働の喜びとは無縁であり、社会貢献とも全くつながりません。組織においてタフな人材を育てるという目的の下では、戦力になるか否かの思考だけが重要になるものと思います。

 組織の論理に追われて多忙な日常を生かされている者にとって、去った者は邪魔であり、現実問題として相手にしている暇はありません。すなわち、辞めた人、倒れた人、そして死者です。組織の論理の下では、人間の心を持ち続けていれば心を病み、逆に人間の心を失っても心を病みます。この人心の荒廃と「メンタルの強さ」とは、同じ物事の裏表だと思います。

 この社会の全ての事物を吹き飛ばすものが「死」です。死によって、あらゆる会社も組織も消滅させられます。そして、生命の重さを説く理論であっても、過労死や過労自殺という人間の死に方に対する驚きを失った場所では、死の重さは容易に捉え損なわれているものと思います。「生存競争に負けた者が弱いのだ」という命題を巡る左右の政治論に収まるだけです。

(続きます。)