犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ワタミ過労自殺裁判について(9)

2013-12-22 23:51:15 | 時間・生死・人生

 私が以前に担当していた裁判は、原告側の全面敗訴に終わりました。段の上の偉そうな裁判官から、死者に向かって「あなたの死因はわかりません。私が不明だと言えば不明なのです」と一方的に言われるのは、大真面目な芝居にしては払う犠牲が大き過ぎるものです。このワタミの裁判についても、勝訴か和解かはともかく、敗訴という結果だけは絶対に聞きたくないと感じます。

 敗訴判決後の代理人弁護士は、「日本の裁判所は間違っている」「社員をモノ扱いする会社は腐っている」と激怒します。この感情を実際に支配するものは、依頼者の前でメンツを潰されたことへの憤慨です。あるいは、「弁護士の腕が悪いから負けたのだ」と依頼者に思わせないための保身です。死者が不在の空間で、代理人は死者との委任契約をしていないというだけの話です。

 民事訴訟は法律に則ったゲームであり、訴訟に勝つには技術が必要であり、最大のポイントは重要な証拠を確保することです。裁判に勝って賠償金を得るという目的が正義なのであれば、「上手く証拠を残しつつ死ぬ」ことが何よりに価値が置かれ、生命そのものの重さには価値がなくなります。裁判で勝ち負けを争うということは、制度の側は、人の死を認めることを前提とします。

 国民の法治国家への信頼は、裁判所が正義を実現する機関であることが大前提ですが、ここは専門家との認識がずれているところだと思います。民事訴訟の弁論主義は、「勝手に死んだ子供のために無関係の会社を訴えた親」と、「言いがかりへの対応に苦慮させられる会社」の構造を強要します。また、代理人にとって助かるのは、「しっかりと遺書や日記を残してから死んだ社員」です。

(続きます。)

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