犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ワタミ過労自殺裁判について(7)

2013-12-18 23:26:01 | 時間・生死・人生

 本来の労働の契機は「世のため人のため」であり、収入は後からくっ付いてくるものだと思います。ところが、今やこの哲学を持ち続けることは精神的な疲労が大きすぎ、私利私欲に徹しなければ自分の身が守れません。経済力を持たない雇われ人の立場の者が、社会貢献への高い志を有したところで、いわゆる社畜として自分の会社の経営陣に貢献するのが精一杯だと思います。

 労働環境が劣悪になればなるほど、「社会の厳しさを知る」「社会の荒波に揉まれる」といった表向きの価値は、倫理ではなく経済力によって意味が決定されてきます。いつの世も、食べて生活することに関する支配の場には絶対的な権力が生じますし、この権力を握るには金銭欲や虚栄心の強さが必要です。他方で、賃金を得て食べていくには、精神的な立ち位置の確保が必要です。

 過労自殺の裁判において、死者の内心にまで立ち入って因果関係を探究している代理人は、実際には別のことを悔いています。勤務先の選択を誤ったこと、必死に順応しようとしてストレスばかり溜めたこと、引き時を逃がしたこと等に対するもどかしさです。職場の合う・合わないは必ずあり、特に体育会系気質の組織に合わないのであれば、早目に辞める以外に解決方法はありません。

 「死ぬくらいならなぜ仕事を辞めなかったのか」という問いに正確に答えようとすれば、「どのような仕事であろうと与えられた役割を真摯に全うする高い志を有していたから」と言うしかないと思います。ところが、この労働の喜び、社会貢献としての労働の価値は、経営者のみが理想論として握っています。権力を持たない者には、労働の喜びと苦痛とを決定する権限が与えられていません。

(続きます。)

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。