犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ワタミ過労自殺裁判について(2)

2013-12-11 22:32:45 | 時間・生死・人生

 亡くなった当の本人が不在の場面において、本人と一面識もない代理人が難解な心理学や医学の論理を駆使して科学的立証に熱を上げる姿は、やはり「我々は一体何をやっているのか」という直感的な疑問を呼び起こさざるを得ないものです。この疑問は、原告であるご両親の疑問とも一致しており、「我々はこんな裁判を起こしたのではない」という指摘は図星でした。

 過労と自死との因果関係が争われる場面では、「うつ病などの疾病の発病」「長時間労働に従事していた客観的事実」「業務による強い心理的負荷の存在」等の具体的な立証が必要になります。そしてこの場面では、社会的に称賛される価値観、すなわち「精神的に強い」「弱音を吐かない」「責任感が強い」といった評価が180度転換し、死者自身に牙を剥くことになります。

 亡くなった社員の遺書がなく、あるいは内容が一義的でなく、証言に協力してもらえる元同僚もいないとなれば、裁判は苦戦続きとなります。あらん限りの過去を書き集めても、「人は疲弊が極限まで至ると明確な遺書など書く気力すら起こせない」という命題は、証拠裁判主義の論理と噛み合うことがありません。最初から不可能な論理に挑み、当然の帰結を思い知らされるだけです。

 勝ち負けの争いを託された代理人としては、訴訟が劣勢になってくると、「もう少し証拠を残してほしかった」という死者への不平が避け難く生じてきます。これは、生身の人間を法律の要件のほうに当てはめる思考ですので、次の瞬間には「自分は何を考えているのか」という疑問がやはり生じます。入口を間違え、最後まで間違った道を進んでいるという感覚ばかりが残ります。

(続きます。)