犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ワタミ過労自殺裁判について(12)

2013-12-27 22:14:48 | 時間・生死・人生

 「弁護士が労働問題を争う」となると、そこには必然的に血生臭い空気が生じてきます。そして、個々の人生を賭けた発狂寸前の沈黙は、全て「大企業優遇の国の政策が悪い」という総論の下に位置づけられることになり、イデオロギーの色彩を帯びるような印象を受けます。この大正義同士の抽象的な争いの構造は、この国の厳しい労働環境の実態にとって不幸なことだと思います。

 労働問題の各論においては、長時間労働、パワハラ、セクハラ、名ばかり管理職、サービス残業、賃金引下げ、不当解雇といった縦割りの論点主義を前提に、それぞれに適切な争い方のマニュアルも確立しています。従って、多くの場合、相談者が必死に頭の中を整理して弁護士に切々に訴える話と、弁護士から示される理路整然とした法律的アドバイスは噛み合わないと感じています。

 人に死を決意させるほどの限界的な心情は、他者に対する辛さや苦しさのアピールではなく、自己に対する惨めさや情けなさの攻撃です。そして、法律事務所にとって必要なのは、その心情の掘り下げではなく、医師の診断書やカルテの写しです。これは、請求権を法律的に通すための技巧・戦略であり、「労働問題」の唯一の形です。ここでは、攻撃は全て他者に向かうことになります。

 例えば、「ブラック企業」という新語により、人はそれまで言語化できなかった多くのモヤモヤを語ることができるようになったものと思います。他方で、抽象概念はものの見方を固定化させ、「企業」や「ブラック企業」が実体ではないことを忘却させます。ここには、「ブラック企業を撲滅する」という党派的な利益が生じますが、個々の現場の悲鳴の内実は誰にも届かなくなります。

(続きます。)