犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ワタミ過労自殺裁判について(13)

2013-12-28 21:24:24 | 時間・生死・人生

 このストレス社会において、上手く精神衛生を保つことを個々の自己管理義務とする思考は、明らかな現実逃避だろうと思います。病理を生理と言い替える苦肉の策はある種の洗脳だとわかっていても、人はあえて洗脳されていないと潰れてしまいます。ここでの批判的精神は人を病弊に向かわせますが、逆に批判的精神を殺すことは人を自死に向かわせることと思います。

 また、利害関係が複雑に対立したこの社会において、働く者の心を決定的に折るものは、組織外のクレーマーからの攻撃的な言葉だと思います。ここにおいて、人は利他的であろうとすることの報われなさ、自己中心的な思考の首尾一貫性を知らされるとともに、自分の労苦が社会につながっていない現実を知らされます。そして、社外の人間は「労働問題」とは全く無関係です。

 他の現代社会の事件と同じように、人間の飽くなき欲望による倫理観の欠如、生死に関する畏怖の感覚の欠如という基本を抜きにはこの議論は始まらないと思います。しかしながら、私の印象では、「労働問題に造詣の深い弁護士」の多くがこのような意見を保守的であるとし、道徳的なものの強制を嫌悪し、より政治的な立場から好戦的に物事を捉えているように思います。

 このワタミの裁判に関する部外者の無責任な願望ですが、原告代理人には国家政策論を広げ過ぎて収拾がつかなくなる陥穽には落ちないでほしいと思います。また、事務方の雑用は長期間かつ膨大になると思いますが、弁護士は「雑用なんか簡単だ」「単純作業は弁護士の仕事ではない」という偉そうな態度に染まらず、縁の下のスタッフへの敬意を忘れないでほしいと願います。

(終わりです。)