犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ワタミ過労自殺裁判について(6)

2013-12-16 23:56:46 | 時間・生死・人生

 人間は強い生き物ではありませんし、職場の巡り合わせは運・不運に左右されると言うしかなく、本人の努力ではどうすることもできない領域だと思います。また、仕事上のことで自ら命を絶たざるを得なくなるか否かは、実に紙一重のところであると感じます。これは、会社の規模や当人の地位にかかわらず、組織人である限り避けられない種類のものであると思います。

 とにかく目の前の仕事を回さなければいけない、つべこべ言わずに業務を処理しなければ流れが止まってしまう現場の真っ只中では、組織内外の殺伐とした空気に囲まれて、何も考えずに与えられた役割をこなさなければ大変なことになります。人は、このような状況において「何でこんな思いをしなければならないのか」と考えてしまえば、恐らく精神が破壊されます。

 人が多忙な組織の中で精神を病まずに役割を全うするということは、物事を深く考えずに黙って耐え、ロボットのように思考停止することだと思います。死なないためには逆に自分を殺し、死にたくないなら誰が誰の人生を生きているのかを考えてはいけないということです。そして、この思考は短期的には精神の破壊を防止しますが、中長期的には生きる意志を弱めるものです。

 ブラック企業がブラックである所以は、長時間労働と低賃金の並列による人間の精神への破壊力の大きさだと思います。現場の悲鳴を個々の心の中に押し込んで黙々と働くとき、この仕事は「世のため人のため」だと思っていては耐えられませんが、「お金のため」だと思っていれば耐えられます。この構造において、個人の努力のみで精神衛生を維持するのは不可能です。

(続きます。)

ワタミ過労自殺裁判について(5)

2013-12-15 22:45:57 | 時間・生死・人生

 真剣に過労自殺の原因なるものを求めるならば、法律的な「因果関係の有無の解明」では不正確であり、文学的な「伏線を辿る」作業を経なければ的を射ることはできないはずだと思います。両者は、時間の流れの方向が正反対です。裁判は勝ち負けですので、つべこべ言わずに勝たなければなりませんが、ここでは証拠の残し方の巧拙が結論を左右し、必ず最初と話がずれてきます。

 他者のある行動に至る内心を別の者が描写するならば、それは「前兆を見落とした」「まさかこんなことになるとは思わなかった」という形を採らざるを得ないものと思います。そして、その時点においてはそれをそれと認識することは困難です。人の内心の動きや人格が崩れ落ちる過程は外からは見えず、人間ドラマの伏線を回収する方法によらなければ、線は一本につながりません。

 これに対し、法律的な因果関係の判定において、死者における過去の内面の葛藤は無意味です。これは、死の原因を論じつつ死の原因を論じないものであり、結果として論理の筋は強引にならざるを得ないものと思います。すなわち、「仕事で死ぬくらいなら死ぬ前に仕事を辞めているはずである」、「仕事が好きならば好きな仕事が原因で死ぬはずがない」という非常に乱暴な正論です。

 若者が簡単に会社を辞める時代状況において、我慢の足りなさは非難の対象であり、他方で忍耐力や責任感の強さは正当な道徳として評価されるものと思います。ところが、その道徳に忠実であるがゆえに命を断った者に対しては、逆に仕事の投げ出しや会社からの逃避の選択肢に価値を置き、因果関係を否定しようとするのが、経済社会の矛盾した論理のあり方なのだと思います。

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ワタミ過労自殺裁判について(4)

2013-12-14 22:41:50 | 時間・生死・人生

 あくまでも私の経験からの実感ですが、ここでの「因果関係」なる単語は、真剣に自死の原因を追求するものではなく、経済活動としての労働の論理に限定された範囲内でのみ意味を持つものだと思います。言語はそこに存在しないものを実体化させますが、そもそも因果関係という関係性の設定が1つの虚構であり、さらにはその関係の有無も恣意的だからです。

 また、過労自殺の裁判を起こす側において「因果関係を証明したい」という形で提訴の動機が強要されるのは、極めて不自然なことだと思います。関係性を論じるということは、結果からの逆算を強いられることであり、自死という動かぬゴールをスタートに置く結果論となるからです。これでは、蟻地獄に落ちてしまう肝心の真相を再現することができません。

 もとより生きている人間には死を逆説的にしか語れませんので、死者の真意を理屈で捉えることは不可能です。動物のうちで人間のみが言語を持ち、ゆえに死の観念を持ち、「自分で命を断ちたい」という契機を有することが可能である以上、自死を生じるのは言語の力です。そうだとすれば、この言語の錯乱による思考停止を正確に捉える以外に方法はないと思います。

 「自分で自分の人生を終わらせる」という決断は、間違いなく全ての人間の一生における最大の決断となるものです。これは、「生きたい」「死にたくない」という自分自身の欲求を乗り越えなければなりません。従って、人間の生きる気力が内側から蝕まれる瞬間、すなわち「死にたくない」という意志が弱められる瞬間を捉えることなしに話は進まないはずです。

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ワタミ過労自殺裁判について(3)

2013-12-13 22:30:55 | 時間・生死・人生

 業務と自死との間の因果関係が証明できないとなれば、「自殺の原因は不明であると言わざるを得ない」との敗訴判決が言い渡されるのみです。そして、「それでは自死の原因は何なのか」という問いは、ここでのシステムからは外されることになります。もっとも、この思考の枠組みは1つの政治的選択による仮説であり、学問的探究の成果としての唯一の結論ではありません。

 その亡くなった社員の業務日誌には、意欲的な言葉が記されていました。また、同僚や家族にも前向きな言葉を語っていました。この事実は、裁判ゲームにおいては非常に不利になります。そして、「自殺の動機が見当たらない」、「他の理由であると言わざるを得ない」、「残念ながら本人には話を聞けない」と大真面目に攻められれば、虚しい反論を強いられることになります。

 亡くなった方のプラス思考の日誌は、普通に読めば、肉体と精神の限界において自身を鼓舞する悲鳴が記されていることがわかります。また、肩書きのある社会人としてこのような言語化を遂行していたために、その悲鳴が行間のみに閉じ込められていたこともわかります。本来の日記に自分の言葉を書いて頭の中を整理し、自分を客観的に見る気力が奪われている状態だからです。

 このような読解力の発動は社会生活において不可欠であり、我々が日常的に行っている作業だと思います。現に、仕事の現場では「お客様の意志を汲んで先に動く」「上司に指示される前に察する」といった高度な技術が履行されています。ところが、死者の自死直前の言葉に向き合う場面になると、この技術はなぜか封印され、経済社会の論理は全くの無知を装うことになります。

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ワタミ過労自殺裁判について(2)

2013-12-11 22:32:45 | 時間・生死・人生

 亡くなった当の本人が不在の場面において、本人と一面識もない代理人が難解な心理学や医学の論理を駆使して科学的立証に熱を上げる姿は、やはり「我々は一体何をやっているのか」という直感的な疑問を呼び起こさざるを得ないものです。この疑問は、原告であるご両親の疑問とも一致しており、「我々はこんな裁判を起こしたのではない」という指摘は図星でした。

 過労と自死との因果関係が争われる場面では、「うつ病などの疾病の発病」「長時間労働に従事していた客観的事実」「業務による強い心理的負荷の存在」等の具体的な立証が必要になります。そしてこの場面では、社会的に称賛される価値観、すなわち「精神的に強い」「弱音を吐かない」「責任感が強い」といった評価が180度転換し、死者自身に牙を剥くことになります。

 亡くなった社員の遺書がなく、あるいは内容が一義的でなく、証言に協力してもらえる元同僚もいないとなれば、裁判は苦戦続きとなります。あらん限りの過去を書き集めても、「人は疲弊が極限まで至ると明確な遺書など書く気力すら起こせない」という命題は、証拠裁判主義の論理と噛み合うことがありません。最初から不可能な論理に挑み、当然の帰結を思い知らされるだけです。

 勝ち負けの争いを託された代理人としては、訴訟が劣勢になってくると、「もう少し証拠を残してほしかった」という死者への不平が避け難く生じてきます。これは、生身の人間を法律の要件のほうに当てはめる思考ですので、次の瞬間には「自分は何を考えているのか」という疑問がやはり生じます。入口を間違え、最後まで間違った道を進んでいるという感覚ばかりが残ります。

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ワタミ過労自殺裁判について(1)

2013-12-10 22:26:56 | 時間・生死・人生

平成25年12月9日 毎日新聞ニュースより

 居酒屋大手「和民」で働いていた森美菜さん(当時26歳)が過労自殺した問題で、森さんの両親が9日、和民を経営する「ワタミフードサービス」、親会社「ワタミ」、ワタミの社長だった渡辺美樹参院議員などを相手取り、約1億5300万円の損害賠償を求め東京地裁に提訴した。

 訴状などによると、美菜さんは入社3カ月後の2008年6月12日、神奈川県横須賀市のマンションから墜落して死亡した。当時、同市の「和民・京急久里浜駅前店」で働いており、残業は月約141時間と国の定めた「過労死ライン」(月80時間)を超えていた。残されたノートには「どうか助けてください」などと記されていたという。


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 上のニュースを聞いて、私自身の経験から考えたことを書きます。

 私が以前に法律事務所で担当していたある過労自殺の裁判は、法治国家や経済社会への深い絶望を感じさせられる結果に終わりました。もっとも、このように過去形で書くと、その後も現在進行形の生を生きられて来たであろうご両親(元原告)や、仕事への使命感ゆえに職場を投げ出せなかった本人に対して、他人事として驕り高ぶっているような罪悪感が生じます。

 他方で、過去に起きた歴史的な事実が勝ち負けの論理で確定される裁判の現場では、悔しさを感じる負けには救いがあるのに対し、絶望を感じる負けには救いがないことも思い知らされています。代理人として原告から勝訴を託されたにもかかわらず、敗訴に対して虚しさという姿勢で向き合うことは、自分の力不足に対する弁解と責任逃れでしかありません。

 その訴訟における最大の争点は、この種の裁判での決まりごとである「因果関係の有無」でした。過労と自死との因果関係が存在しなければ、まさに過労自殺というテーマが間違っていることになり、入口がここに設定されることは理屈では納得できました。同時に、科学的客観性の外形において、実際の争点は政治論や損得勘定であることも疑いのない事実でした。

(続きます。)

特定秘密保護法

2013-12-08 22:58:40 | 国家・政治・刑罰

 この1週間は、特定秘密保護法案の審議と採決に振り回されて、私の勤務する法律事務所は大忙しでした。「戦前の暗い時代に戻してはならない」の有無を言わせぬ空気の前では、私個人の考えを表面する権利もなく、私はひたすら職務命令に従い、国会議事堂周辺でのデモの待ち合わせ場所の連絡などの雑用に奔走し、目の回る忙しさでヘトヘトになった1週間でした。

 喧騒のさなか、ある依頼者から苦情の電話がありました。担当弁護士が連日の集会のために事務処理が後回しになり、約束の書類作成の期限が過ぎてしまった件です。私は、適当に「急用ができまして」と誤魔化そうとしましたが、全ては見通されていました。事務所のホームページのトップが、法案採決反対への協力を求める激しい口調のものに変わっていたからです。

 「私の相談の件なんて、法案に比べれば下らないと思ってるんでしょう?」との依頼者の怒りの言葉は、私の心にずしりと堪えました。私は立場上ひたすら謝り、「担当弁護士に伝えて早急に進めます」としか回答できませんでしたが、その後デモから不機嫌で戻ってきた担当弁護士から「こんな件は後に決まってるだろう」と激怒され、私は二種類の怒りに挟まれました。

 国会前で怒号の飛び交う様子がテレビで中継される真っ只中、同じように催促を求める別の依頼者からのクレームの電話がありました。この依頼者もホームページを見ており、「首を長くして待っている私の気持ちがわかりますか?」「私の人生にとって法案なんかどうでもいいんです」「私は人生を賭けてお宅の事務所にお願いしたんですよ」という重い言葉を投げつけられました。

 2人の依頼者からの言葉は図星でした。しかし、2人の依頼者は私を名指しで糾弾していましたので、私の内心は同情心や罪悪感よりも、反発心や敵意のほうが優勢でした。私にとって、この1週間の大騒ぎによる疲弊は、何よりも軍国主義を思い知らされるものでした。それは、絶対的正義による価値序列であり、目線の高さであり、個々人の人生の軽視でした。