犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ワタミ過労自殺裁判について(11)

2013-12-25 22:57:12 | 時間・生死・人生

 仕事に対する強い責任感を有する者は、誰しも勤める場所を間違えれば過労自殺に至る危険があるものと思います。仕事に対する純粋な高い志を持ち、会社のために役立とうと献身的になっている社員が、世間や組織の汚い部分に包囲され、しかもそれが「社会の厳しさ」であるとされ、「自分自身の甘さ」「社会人失格」の論理に抗えなくなるという世知辛い構造は絶望的です。

 このような環境に置かれた人間の混乱は、その体力や精神力を一気に落とすものだと思います。そして、その混乱に拍車をかけるのが、綺麗事としての「仕事に対する純粋な高い志」を経営者側が独占して握っており、しかも論理が一回転している点だと思います。人を使う立場にある者は、「自分は人に使われる側に立つのは絶対に嫌だ」という哲学をも示すことになります。

 ところが、裁判で問題とされる「因果関係」は、上記の構造とは全く接点がないものです。自死者がうつ状態に陥っていたという精神疾患の生物学的事実こそが求められるのであり、生きる気力を奪われた過程なるものは、死者に聞かなければわからないからです。同じように、ここでは労働時間の長さの数字だけが重要であり、「心地よい疲れ」と「徒労感」の区別もありません。

 私が担当していた裁判は、「業務と自殺との因果関係」を巡る重箱の隅の議論に長時間を費やしただけで終わりました。他の多くの裁判と同じように、概して訴訟というものは、当事者にとって最も重要なポイントは裁判所には関心がないことで、当事者は「こんな話を議論しに来たのではなかったはずだ」「何かが違うような気がする」と言っているうちに終わってしまうものです。

(続きます。)