これはあくまでも私の個人的な感想ですが、労働問題専門の弁護士が訴訟を遂行すると、企業を悪者とする大上段の正義を前提に「弱者救済」「労働者の人権」「社会を変える」という価値が自己目的化し、原告である家族の真意とのずれが生じることがあるように思います。「私は何のためにここまで息子(娘)を育ててきたのか」という問いは、容易に政治的な主張に転化するものではないからです。
現代の過労自殺の問題を根本から考えれば、ワーキングプア・二極化・格差社会といった社会問題にまで対象が広がり、複雑な社会の構造全体を論じざるを得なくなります。この理論は、脱原発や特定秘密保護法への反対、憲法9条を守るといった政治的な主義主張ともつながってきます。しかしながら、これらの思想は、原告である家族が裁判に託したものとは全く関連がないはずだと思います。
私が感じているのは、そのような自死を契機とした正義の実現ではなく、あくまでも自死の生じなかった状態が正義であるという点であり、それは業務と自死との間の因果関係を証明する作業とは逆方向であるという点です。自死に至る具体的な経緯を辿ると、生死は上司や同僚の一言二言によって逆になっていたことが窺われ、殺伐とした空気の中での言葉は簡単に人を殺すのだという現実が明らかになります。
過労自殺が過労死と大きく異なるのは、健康障害リスクの基準である「過労死ライン」の数値の判定よりも、具体的な個々のストレスが問題になるという点です。そして、人に死を迫るほどの最大のストレス要因は、仕事の内容の話ではなく、社内の人間関係です。ところが、業務と自死との因果関係を証明するとなると、その最大のストレス要因とは微妙にポイントがずれてしまうというのが私の印象です。
(続きます。)