犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ワタミ過労自殺裁判について(4)

2013-12-14 22:41:50 | 時間・生死・人生

 あくまでも私の経験からの実感ですが、ここでの「因果関係」なる単語は、真剣に自死の原因を追求するものではなく、経済活動としての労働の論理に限定された範囲内でのみ意味を持つものだと思います。言語はそこに存在しないものを実体化させますが、そもそも因果関係という関係性の設定が1つの虚構であり、さらにはその関係の有無も恣意的だからです。

 また、過労自殺の裁判を起こす側において「因果関係を証明したい」という形で提訴の動機が強要されるのは、極めて不自然なことだと思います。関係性を論じるということは、結果からの逆算を強いられることであり、自死という動かぬゴールをスタートに置く結果論となるからです。これでは、蟻地獄に落ちてしまう肝心の真相を再現することができません。

 もとより生きている人間には死を逆説的にしか語れませんので、死者の真意を理屈で捉えることは不可能です。動物のうちで人間のみが言語を持ち、ゆえに死の観念を持ち、「自分で命を断ちたい」という契機を有することが可能である以上、自死を生じるのは言語の力です。そうだとすれば、この言語の錯乱による思考停止を正確に捉える以外に方法はないと思います。

 「自分で自分の人生を終わらせる」という決断は、間違いなく全ての人間の一生における最大の決断となるものです。これは、「生きたい」「死にたくない」という自分自身の欲求を乗り越えなければなりません。従って、人間の生きる気力が内側から蝕まれる瞬間、すなわち「死にたくない」という意志が弱められる瞬間を捉えることなしに話は進まないはずです。

(続きます。)