犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

吉田熈生編 『中原中也詩集』

2012-07-17 23:51:20 | 読書感想文

p.324~ 吉田熈生氏の解説

 中原中也の詩には、ある「遠さの感覚」があって、それが彼の詩の1つの源泉をなしている。誰でも子供の頃、星空を仰いで、宇宙についての知識とは別に、言葉にならない不思議な感じにうたれた記憶があるはずだが、中原の詩にはそういう子供の記憶を一生持ち続けたようなところがある。

 有名な「一つのメルヘン」にしても、そこに表現されているのは、日光と水と小石しかない原初的な世界であり、人間はいない。詩人もまた、1つの蝶と化してこれに生命の息吹を与えるだけである。こういう情景は、「自然」の風物に自己の日常的な情緒を託し、「自然」に包まれて生きる詩人からは決して生まれないだろう。

 世界と自己について、このような感覚をもった詩人が、現実の社会の中に生きるということは困難なことにちがいない。なぜなら近代は自己主張の時代であり、知識を重んじる合理主義の時代であり、科学文明の時代だからである。言葉もまた時代の動向に沿って、意味の伝達を機能的に、効率よく果たす役割を背負わされる。ところが詩人中原中也の言葉は、このような近代の言葉とは相容れないものであった。

 しかし詩人も現実の中で、ということは他者との関係の中で生きなければならない。そして中原の言葉は、他者に向けられた鋭利な批評であり、その批評は反転して自己に突き刺さる性質のものであった。中原は、はやくから、詩人とは神に代わって歌う「天才」だと考えていたし、それに対して「名辞」の世界に生きる人間は言葉を便利な「物」として使う「俗人」だと考えていた。

 しかし神は人々に仰がれるであろうが、詩人はその善意にもかかわらず、「悪達者」な世人の「憎悪」によって陥れられる。「名辞以前」の世界という考えは、それが自己の生に向けられた時、言葉を発する自己を否定し、死へと誘う考えでもある。詩人としての中原の自負は、現実から「無」の世界へ墜落することと背中合わせであった。

 死者との交信も中原の詩の特徴の1つである。昭和6年、弟の恰三が病死した。「死別の翌日」が書かれ、ここでも中原は、死者の「清純さ」と生き残った者の「づうづうしさ」を対比させて、自らを責めている。このような死者との関係は、昭和11年、中原が2歳の長男文也を失った時に最も濃密となった。

 人間関係における「間」――距離意識を失い、亡児に憑き過ぎた中原は精神異常を疑われて入院させられた。この前後、中原は「また来ん春」「夏の夜の博覧会はかなしからずや」などの哀切な追悼歌を書き、「春日狂想」で亡児への贖罪意識を歌った。詩人は自分の想いが常識から見れば「狂想」であることを知っていたが、それでも死児への愛と、死者から引き離されて生きる生活の空しさを歌わずにはいられなかったのであった。


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 私が裁判所に勤めていたとき、自動車運転過失致死罪の裁判で、詩のような陳述書を持参した女性がいました。それは、亡くなった夫に対する愛情や、やり切れない心の空洞、寂寥感、孤独感などを書き綴ったものであり、被告人に対する処罰については一言も書かれていませんでした。裁判官は困惑し、検察官は苦笑し、弁護人は不快感を示しました。結局、それは証拠として採用されず、事実上書記官室で預かることになりました。

 書記官室の空気は一方向に固まっていました。法廷という場に詩はそぐわず、そのような詩の朗読はどこか別の場所でやってほしいということです。そして、私もそのように考えていました。それは、法廷の権威を保つことに寄与する公務員としての誇りと自負であり、場違いな言葉に対する見下しの念でした。すなわち、法律の言語は、詩の言語よりも合理的であり、レベルが高いということです。

 その後私は、自分が書く尋問調書などの公文書の内容の空疎さと、被害者が書く詩のような言葉の濃密さの比較に心を痛め続けることになりました。私は言葉の仕事に従事する者として、「名辞」の世界に生きる人間は言葉を便利な「物」として使う「俗人」だとの確信を強めていきましたが、それは言葉のプロとしての職務倫理に反していました。私は、詩人が現実の社会の中に生きることの困難さを知ることになりました。