犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

齋藤孝著 『なぜ日本人は学ばなくなったのか』

2012-07-16 23:42:23 | 読書感想文

p.20~

 今や「情報はタダ」という認識が一般化しています。碩学と呼ばれる学問の大家が心血を注いで書いた言葉も、アイドルの言葉も、一般の人による“街の声”も、あるいはショップや商品の宣伝文句も、すべて並列的に同じ情報として扱われています。世の中全体が水平化、フラット化した社会になりつつあるといえるでしょう。

 バラエティ番組では、いかに教養がないか、バカであるかを競い合うようなものが放映されています。視聴者はそれを見て楽しんだり安心したり。いわば知性のないこと、あるいはそれを逆手にとって開き直る姿が“強さ”として映るような時代になっているわけです。

 その感覚は教育現場にも及んでいます。もちろん、今でも一生懸命に勉強する生徒・学生はいますが、勉強しない学生のほうが圧倒的に多い。その割合は1対9といったところでしょう。前者は知性や教養を求め、非常に野心に燃えていますが、後者はやる気自体を完全にダウンさせている状態です。


p.85~

 今の親世代には、自分の親の世代に比べ、子どもの世界の邪魔をしてはいけないという自己規制に近い意識が大きく働いています。「性の解放」の潮流が正当性を持って社会に是認されたため、親自身も禁止することを「古くさい」「リベラルではない」と思うようになっている。

 日本でその影響が顕著に現れたのが、「援助交際」です。簡単にいえば10代の売春ですが、昭和時代には考えられないことでした。その世代が、今はもう親になっています。これからの日本では、自己を完全に商品化してしまった人たちも子育てをしていくわけです。教育の新しい局面に向かうことになります。

 自分にとっての快適な空間を第一に考える昨今の若者と、従来の「学ぶ」ことを主軸に自己形成してきた時代の若者とを比べると、まさに隔世の感があります。「遊ぶ」と「学ぶ」を天秤にのせると、かつては後者のほうが重かったはずなのに、今では前者のほうがずっと重い。そういう大きな転換が起きました。


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 教育現場からいじめをなくそうと本気で考えるのであれば、学校とは何か、教育とは何かについて、現代の歪みを是正するための幅広い議論を尽くす必要があります。また、年間3万人を超える自殺者をゼロに近付けようと本気で考えるのであれば、同じく途方もない国民的議論が必要となります。そして、このような議論は1週間も続かないのが通常だと思います。

 大津市のいじめ問題を議論する番組の内容よりも、その合間のコマーシャルや番組予告とのギャップの方が、いじめ問題の深さを表しているような気がしました。報道番組ではそろそろこの話題も賞味期限が切れてきたようであり、「国民全体で幅広い議論を尽くすべき問題」が一体いくつ存在するのか、考えると気が遠くなります。