犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

大津市いじめ自殺問題(3)

2012-07-12 23:42:06 | 時間・生死・人生

 人生は一度きりであり、命は1つしかない以上、生死の力関係においては、殺した者が強者であり、殺された者が弱者です。殺した者は生きており、殺された者は生きていない現実が動かぬものであれば、法は、法を守らない者を守ることになります。死者は帰らず、失われた人生は戻りません。ここでの復讐や報復という価値は、人が法を守れないことを示しているのではなく、法が人を守れないことを示しているものと思います。

 そして、このような法治国家において、殺人者よりもさらに強い地位を得るのが、他者を自殺に追い込む者だと思います。死者の行為の外形は、あくまでも自分の命を粗末にしたものであるのに対し、他者を死に追い込んだ者は、法の裁きを免れます。そして、死者の生きられなかった時間を生きる者には、その倫理的な罪の十字架を背負って苦しむ人生を送るのか、あるいは過去を忘れ去ってのうのうと笑って生きていくかの選択が可能であり、いずれにしてもその後の人生が保障されています。

 主役であるべき死者を置き去りにした議論の盛り上がりは、生き残った者の優越感に覆われ、死者の立つべき地位を奪い取るように思います。マンションから飛び降りないよりも飛び降りることのほうが望まれる心理状態を察しようとすれば、それは全身の痛み及び死の絶望を人生の最上の価値とすることであり、現に生きている人間にこの先の思考は不可能と思います。従って、人間になし得ることは絶句と沈黙のみであり、本来であれば議論の余地はないと思います。

 学校や教育委員会の初期対応の拙さについては、「なぜ昨年10月の出来事が今頃になって問題になるのか」という疑問とともに、組織内で揉まれた者においては、かなり腹黒い意味を与えられるものと思います。すなわち、なぜ上手く揉み消せなかったのか、どこで根回しや裏工作が失敗したのかという点の拙さです。このような老獪さを示す秀逸な言い回しに、「子供じゃないんだから」「ここは学校ではなく会社だ」というものがあります。学校という場で子供が死を選んだ事実の前では、手の打ちようがないと思います。

 いじめと自殺の因果関係の有無を大真面目に議論して争うのは、悪い冗談であるとの印象を受けます。この種の議論の大義名分として、二度と同じようなことが起きないようにするための生産的な活動であることが求められますが、これが実現したためしはないと思います。因果関係の有無は、あくまでも生き残った者の後知恵です。そして、我が子を救えなかった親の絶望は、怒りや悲しみを通り越して感情を失くすものである以上、因果関係の解明によって怒りや悲しみが癒されたり、乗り越えられることはないと思います。