犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

大津市いじめ自殺問題(4)

2012-07-21 23:57:41 | 時間・生死・人生

 人は日常生活において単語を定義しながら使用しているわけではない以上、いじめの定義から問題に入ることは、観念論の知的遊戯に堕するものと思います。縦割りの論点主義によっていじめが主題となる場合、そこでは責任の所在が問われ、定義から問題に入ることによる利益が生じます。これに対し、例えば「原発事故で福島県から避難した子供がいじめに遭っている」、「あまりに珍奇な名前(キラキラネーム)を付けると将来いじめに遭う」と語られるとき、いじめの定義は自明だと思います。

 「いじめは朝起きた瞬間から始まっている」という表現を聞き、深く納得したことがあります。「いじめは家でご飯を食べている間も続いている」という表現も同様です。これらは、いじめられている側のみに成立している論理であり、いじめている側には無関係であることによって、「いじめとは何か」という残酷な真実を示しているように思います。人はなぜいじめを受けると自分で自分の命を絶たなければならなくなるのかという問いに対する解答の入口は、ここにあると感じます。

 ところが、このような表現は、得てして文学的です。強制的であれ、限界まで突き詰められてしまった言葉は、文学的にならざるを得ないということだと思います。「学校でいじめられていない間もいじめは続いているのだ」という文学的な表現が、いじめと自殺の因果関係を示す論理として把握されるためには、かなりの読解力の発動を要するはずです。ところが、実務的にいじめと自殺の因果関係を議論する場では、このような論理の入る余地はありません。単なる比喩として捨て置かれるものと思います。

 生徒の人生を預かっている教育現場において、その生徒が死を選んだということは、教育者としては何よりも先ず敗北感に打ちひしがれるはずです。ここにおいて、いじめの定義を論じ、いじめの存在の有無を論じ、いじめの確認の有無を論じ、自殺との因果関係の有無を論じることは、閉塞感の打開という意義を与えられるものと思います。「有る・無し」の究極は生と死であり、いじめの有無ではない以上、人の死を前にした実務的な議論は、当初から的を外すことが前提になっているのだと思います。