犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

大津市いじめ自殺問題(2)

2012-07-10 00:02:21 | 時間・生死・人生

 いじめ問題について、以前にはかなりの力を持っていたのが、「子どもの人権」から演繹的に考える理論であったと思います。すなわち、体罰や校則による管理教育がストレスを生み、生徒間での人権を守る意識を低下させているのであり、この点を改めればいじめは改善されるとの主張です。私は個人的に、いわゆる山形マット死事件を機にこの種の理論に幻滅を覚え、恐怖すら感じるようになりました。ここでのいじめ問題は、学校の民主化という総論に対する各論に過ぎず、より大きな正義の前に死者の命は容赦なく踏みにじられるとの印象を持ったからです。

 今となっては、いじめ問題への有効策と思われたゆとり教育が大失敗の烙印を押され、学校裏サイトには手の打ちようがなく、大人の職場でのパワハラ・モラハラも蔓延し、かつてのいじめ論議が遠い昔のことのように思われます。試行錯誤を重ねた結果、想定外の状況の対応に追われ、万策尽きて真面目に議論に疲れ果てれば、多くの人間はそこで思考を断ちます。そして、「同級生の名前がテレビで透けて見えた」などの叩きやすい失策を非難することにより、その空気に乗って、正義の側に立っているとの安心感を得るしかないのだと思います。

 学校や教育委員会による事実の隠蔽、あるいは教師による生徒への口止めという事実を捉えて、今回の問題の元凶のように非難するのは、あまり上品な姿勢ではないと思います。いかなる組織であっても、いわゆる「現場の悲鳴」を肌で感じている者は、桁違いの修羅場がもたらす精神の疲弊を知り抜いており、かつその苦悩は外部からは理解されないことを悟っています。そして、人は危機が大きければ大きいほど「自分の身は自分で守るべきだ」という自己責任論を投げつけられるのであり、組織の論理に逆らって自己の良心に従う余地は皆無に等しいと思います。

 亡くなった生徒は、マンションの14階から飛び降りたとのことですが、すでに全身を完膚なきまでに打ち付けられている状態では、改めて飛び降りて物理的に全身を打ち付けることに対する解釈は行き止まりだと思います。これは言い古されたことであり、誰もが解っていて解らなくなっていることだと思いますが、他者の痛みを理解する感覚の欠如は、情報や欲望の増大による個人の自意識の肥大と比例しています。この点につき、現代社会の多くの大人は、人生の先輩として中学生に語り掛けられる言葉を持っていないものと思います。