犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

大津市いじめ自殺問題(1)

2012-07-09 23:35:07 | 時間・生死・人生

 少子化問題の議論においては、「産み育てた我が子はいじめを受けて自殺しない」という安全神話があるものと思います。人が親になるということは、1人の人間を肉体的にも精神的にも一人前に育て上げるという大仕事であり、この世で最も難しい仕事だと感じます。その我が子が、他の「我が子」からいじめを受けて親よりも先にこの世を去る可能性があるという事実は、多くの人が気付きながらも避けている部分だと思います。しかしながら、少子化の大きな原因は、このような教育環境がもたらす命の軽さの感覚であり、あらゆる社会環境が「生きにくい」と感じられる点にあるのではないかと思います。

 この世の中では起こったことしか起こらず、起きていないことは起きていません。防げたことは最初から存在せず、何の賞賛も浴びませんが、防げなかったことに対しては容赦ない非難が浴びせられます。数年前、いじめを苦にした自殺予告により期末試験や体育祭を中止した出来事が相次いだことがありましたが、その時には、毅然たる対応が取れなかった学校に対する非難の論調が主流だったと記憶しています。自殺が起こらなかったという圧倒的な事実の前には、「人命最優先」の理屈の説得性は落ちます。そして、逆に自殺という圧倒的な事実が起これば、この論理は簡単にひっくり返ります。

 「生きていれば必ずいいことがある」というのは大嘘だと思います。これに対して、いじめ自殺で我が子を失った親が、「一生引きこもりであろうと不幸であろうと単に生きていてほしかった」と語る言葉に嘘が入る余地はないと思います。自殺のSOSは、自殺した後に初めてそれとして把握できるものです。自殺という事実が存在しなければ、何回も学校を訪問して訴える親は、単なるモンスターペアレントに過ぎません。これは、過酷な学校現場で疲弊した教師の側の過労やうつ病の問題であり、この場所に生徒のSOSが存在する余地はないと思います。部外者の非難はすべて結果論であり、後知恵です。

 いじめ自殺と言えば、「鹿川裕史君」「大河内清輝君」という名前が、顔写真や遺書とともに思い出されます。25年前の中学生は、今回の件では生徒の親の年代に当たるものと思います。社会科学的な問題解決の手法は、中学生なら中学生と対象を固定化したうえで、その理論を実践に移すのが通常です。しかし、その間に社会が先を行ってしまい、後を追い掛けても理論が追い付かず、気が付いたら自分が歳を取っていたという事態が生じがちだと思います。25年前の「生きジゴク」「葬式ごっこ」に衝撃を受けた者ほど、25年後の「自殺の練習」を前にしてなす術がなく、生じるのは虚脱感ばかりだと思います。

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