犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

稲盛和夫・五木寛之著 『何のために生きるのか』 その1

2012-07-05 23:48:43 | 読書感想文

p.59~

 学者ですと、学問の理論というものがありますから、根拠のないことは言いにくい。でも、僕は小説家だから、言いたいことが言える。そういう前提で、非常に無知な立場から乱暴なことを言わせていただきますけれども、人間はいま、大きな価値転換のギリギリのところに差しかかっていると思うのですよ。

 それはなにかというと、稲盛さんもずっと言い続けておられるこころの問題なんです。庶民でもペイオフがどうだ、年金がどうだといろいろ心配していますけれど、そんなことなんか大問題じゃないですよ。それよりも大事なことは、いまこの国で年間3万人を超える自殺者が出ているということに代表されるような、こころの荒廃した状態をどうするかでしょう。もう7年続けて自殺者は3万人を超えている。こんなにいのちの軽い時代はないんですよ。

 私たちが毎日の新聞を見ていると、このあいだまでは母親が息子を虐待して殺したとかいって、ああ、ひどい話だなと思っていたら、今度は祖母が孫を殺そうとしたという。おばあちゃんにとって孫というのは目の中に入れても痛くない、愛しいものであるはずなのに、ここまで来てしまった。なにをか言わんやということなんです。

 変な言い方だけど、いま私たちがいちばん問題にしなくてはならないのは政局の混迷でも経済の破綻でもなくて、“精神のデフレ”ということなんです。精神のデフレ、それから“心の不良債権”。こういうものが山積みになっている。国債なんて何兆あろうが日本人は難民になっても立ち直るんですよ。しかし、精神のデフレ、心の不良債権の問題はかつてなかったことです。


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 私は世間知らずの学生時代、無条件に五木寛之氏に傾倒していた時期がありました。命よりもお金・欲望・権力・権威・名声が重要であるような世の中が正しいわけがない、と純粋に考えていたように思います。そして、私は多くの学生の例に漏れず、社会に出るや否や、本から得た信念を捨てざるを得ませんでした。お金がなければ人間は生きられない以上、命が大事であるならば、それは命よりもお金が大事だと認めたことになるという論理が否定できなかったからです。

 私は、仕事で金融業者と電話で怒鳴り合ううちに、「命よりもお金のほうが重いに決まっている」という人間の信念の固さを知りました。また、「金貸しは客を自殺させて一人前」という哲学の強さも知りました。私はこれに対抗するため、「借金を踏み倒して自己破産することは絶対善である」という逆の哲学に頼っていたように思います。また、金融会社の担当者の営業成績が上がらずに心を病み、死に追い込まれたとしても、私には何の関係もないことでした。

 今になって改めて五木氏の言葉に触れてみると、同氏の戦争体験に裏付けられた思想が少しだけ深く読めるようになった気がします。生きるか死ぬか、食うか食われるかの極限の場面では、決まりを守る者、気持ちの優しい者から順番に命を落とし、他人を押しのけた人間が最後まで生き延びたという真実の救い難さです。この絶望と諦観を起点とする五木氏の理論は、「今の間違った世の中を正しくしよう」という社会運動にならないことは当然だと思います。

法坂一広著 『弁護士探偵物語』

2012-07-04 23:01:35 | 読書感想文

p.378~ 茶木則雄氏の書評「新機軸とも言うべき《リーガル・ハードボイルド》の誕生を、大いに寿ぎたい」より

 事件の背景にアクチュアリティを感じるかと問われれば、否と答える他ないだろう。ハードボイルド・ファンであっても、今どき流行らない古典芸能の様式美をあえて追求する稚気を買うかどうかは、人それぞれだろう。

 しかしそれでも、この作品の根底には、瑕をものともしない強靭な意志がある。それを感じさせてくれたのは、弁護士の「私」が懲戒処分を受けるに至った過去の回想部分だ。現役弁護士の強みを存分に生かした、法曹関係の圧倒的ディテールと迫真性は、第一級のリアリティを構築してさすがと言わざるを得ない。

 それよりも何よりも、刑事事件における司法と検察、弁護の馴れ合いを糾弾する作者の筆致が、実に素晴らしい。筆は活き活きと躍動し、お得意のワイズクラックも、ここはぴたりと決まっている。

 おそらく作者は、法曹界の抱える今日的問題を俎上に載せるため、この小説を書いたのだろう。そう思わせるだけの意気込みが、行間から如実に伝わってくる。書きたいテーマを持ち、それを書かずにはいられないという作者の気概が、瑕だらけの原石の隙間から、仄見える。


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 ハードボイルドとは、ミステリの分野のうち、思索型ではない行動的な性格の探偵が登場する作風を表す用語として定着しています。弁護士の「リーガル・ハードボイルド」となれば、これはいかなる残酷な事件を目の当たりにしても感情に流されず、常に冷酷非情であり、感傷的な人間を卑下するような行動を指すことになると思います。そして、このような世界の捉え方は、迫真性やアクチュアリティの欠如と表裏一体だと思います。

 冷淡な合理主義者である弁護士において、その筆致が最も迫真性を帯びるのは、やはり懲戒請求を受けた場面であると思います。悲惨な殺人事件や死亡事故に対して何の怒りも覚えない弁護士であっても、自身がいわれのない懲戒請求を受けたときには、感情を露わにして怒りに燃えるのが通常です。法曹界の抱える今日的問題とは、プロのメンツやプライドという点に親和性があり、当事者の苦悩や絶望に入り込むことよるディテールや迫真性とは方向が異なるものと思います。

団藤重光著 『死刑廃止論』

2012-07-01 22:20:39 | 読書感想文

p.63~

 犯人が死刑になっても、殺された人が生き返るわけではないし、遺族には空しい虚ろな気持ちが残るに違いありません。だから、殺された人の遺族の中にも、非常に悩んだ末に、最後には、犯人を死刑にしないで欲しいと言って、むしろ、それを機会に死刑廃止論者になった人さえあります。これは、誠に感動的な尊いことです。応報感情もこうした形で昇華されることがあり得るのです。


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 元最高裁判事の団藤重光氏死去のニュースを聞き、大学1年生の4月に読んだ『死刑廃止論』を再読しました。上記の部分については、世間知らずの大学生の時にどのような感想を持って読んでいたのか、全く記憶がありません。恐らく、「そうだろうなあ」という程度で納得していたものと思います。東大名誉教授、元最高裁判事、文化勲章受章という権威に従い、読む前から「正しいものは正しい」と判断していたのかも知れないと思います。

 団藤氏は刑事法学の重鎮であり、学界を二分した刑法論争においては古典学派(旧派)に属しています。旧派の中では、後期旧派の立場の団藤氏と前期旧派に立つ平野龍一氏との対立が激しく、平野氏が団藤氏を徹底的に批判したこともあり、確執が非常に激しかったと聞きます。そもそも、人生観や世界観の根本的な相違に基づく哲学的見解に妥協や歩み寄りはあり得ないと思います。但し、権威や名誉を伴って派閥が生じるのは、どの世界にも共通のことだと思います。

 学界での論争を通してみると、人の世の犯罪に関する議論は、高邁で格調高いものとなります。これは、「罪と罰」に関する問題が哲学的であることによります。遊ぶ金欲しさの強盗殺人も、女性を欲望の対象としてしか見ない連続強姦犯も、団藤氏や平野氏の手にかかると、途端に崇高な議論に姿を変えます。また、我が子を放置して餓死させる母親も、飲酒運転で商店街に突っ込む者も、ここではある種の気高さを伴った問題意識に取り込まれます。そして、このような抽象的議論は、犯罪に伴う狂気、理不尽や絶望といった人間の具体的な生き様よりも上位に立ちます。

 「日本の刑事法学は犯罪被害者を見落としてきた」という反省を語るとき、個々の学者に原因を求めることは、的を射ていないものと思います。学問的関心の設定や学問的良心の所在そのものを問題とするのであれば、「被害者の問題の重要性は劣る」というのも1つの立場だからです。但し、この学会の権威によって目の前の悲惨な犯罪を変形し、そこから派生する狂気を手持ちの理論に合わせて解釈し始めたとき、「犯罪被害者の存在を忘れることにした」ということ自体が忘れられます。そして、「世の中にこのような不条理な犯罪があっていいものか」という驚きが失われます。

 上記の引用部分については、「人の命を奪う」という最大の罪を許し、高度な道徳を獲得した者が、果たしてこの社会で精神を病まずに生活できるのか、単純な疑問が湧きます。庶民の日常生活は、物欲と物欲がぶつかり合ってトラブルが絶えず、人は些細なことも許せずにいがみ合い、生き馬の目を抜く者が上手く世間を渡り、欲望と思惑と保身とが渦巻くストレス社会での生存競争です。ここで、最大の罪も許してしまう浮世離れのお人好しが平穏に生きる場所を得られる確率は、ほぼゼロに近いと思います。

 団藤氏の死去に関し、「ご冥福をお祈りします」という声を多数聞きました。これは単なる揚げ足取りかも知れませんが、口先の虚礼でなく故人の冥土での幸福を祈ることは、天国や来世の有無に通じる問題であり、この点の結論は生と死の捉え方を根本的に覆します。そして、死後の生に関する死生観は、殺人や死刑に関する問題の結論を左右します。私は個人的に、この点の疑問を持たずに団藤氏の冥福を祈り、同時に「団藤氏の遺志を受け継いで死刑廃止を実現すべきだ」と主張する理論には、どうにも鼻持ちならないと感じます。