犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

大津市いじめ自殺問題(5)

2012-07-22 22:44:15 | 時間・生死・人生

 いじめを主語として「いじめは存在したのか否か」と問うことと、人間を主語として「いじめを認識していたのか否か」と問うことは、似て非なるものです。これを哲学的に問い詰めれば存在論と認識論にまで至りますが、世間的に論じられるのは別のところだと思います。現代社会では科学的客観性への信頼が前提とされており、通常の思考の中で登場する問いは、「いじめは存在したのか否か」のみです。ここにおいて、あえて認識のほうを問題にすることは、俗世間を渡るための1つの能力の表明だと思います。

 人が社会常識に従って日常生活を送り、平均的な推論を働かせて行動を選択しているのであれば、今回の自殺の原因についての認識は明白だと思います。いじめは全国の学校に蔓延しており、その中でも死を選ばなければならない程のいじめは執拗かつ陰湿であり、人間の生きる希望を奪うものです。そして、自殺の練習までさせられ、命の軽さを心底まで認識させられた者が、その強制させられた認識に従って当然の如く死を選んだ場合、人間の言語は「彼はいじめを受けて自殺した」「彼はいじめによって自殺した」と語ります。

 利害関係のない第三者としては事実を認識していても、組織の一員としては事実を認識していないという状態は、いわゆる二重思考の技術だと思います。責任を負う側の組織としては、とりあえず「自殺といじめの因果関係がわからない」ということにしておくのが唯一の正解であり、これに従うことが組織人の能力だということです。これは、あらゆる階層的な組織における病理として飽きるほど指摘され、分析されていますが、人命よりも形式的な規則が重視され、人命よりも上意下達の指揮命令系統が大切にされます。

 官僚的な組織におけて最も重要な約束事は、自由主義でもなく、民主主義でもなく、事なかれ主義だと思います。ここでは、いじめは存在していると同時に存在しておらず、自殺との因果関係は存在していると同時に存在しておらず、これらの事実は矛盾しておらず、しかも矛盾していないことを信じなければならないはずです。ここに個人レベルでの自己保身と責任回避が絡んで来れば、事態はより複雑になってくるものと思います。死者はそれぞれの思惑によって利用されるだけです。

 この病理を解きうる論理を保有するのは、哲学のみ(講壇哲学ではない)だと思います。私自身は、食べて寝て生きる身体性の制約のもと、給料を得て生活するために組織人の義務を忠実に果たしており、「自殺といじめの因果関係がわからない」と主張する仕事に浸かり切っています。

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