犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

団藤重光著 『死刑廃止論』

2012-07-01 22:20:39 | 読書感想文

p.63~

 犯人が死刑になっても、殺された人が生き返るわけではないし、遺族には空しい虚ろな気持ちが残るに違いありません。だから、殺された人の遺族の中にも、非常に悩んだ末に、最後には、犯人を死刑にしないで欲しいと言って、むしろ、それを機会に死刑廃止論者になった人さえあります。これは、誠に感動的な尊いことです。応報感情もこうした形で昇華されることがあり得るのです。


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 元最高裁判事の団藤重光氏死去のニュースを聞き、大学1年生の4月に読んだ『死刑廃止論』を再読しました。上記の部分については、世間知らずの大学生の時にどのような感想を持って読んでいたのか、全く記憶がありません。恐らく、「そうだろうなあ」という程度で納得していたものと思います。東大名誉教授、元最高裁判事、文化勲章受章という権威に従い、読む前から「正しいものは正しい」と判断していたのかも知れないと思います。

 団藤氏は刑事法学の重鎮であり、学界を二分した刑法論争においては古典学派(旧派)に属しています。旧派の中では、後期旧派の立場の団藤氏と前期旧派に立つ平野龍一氏との対立が激しく、平野氏が団藤氏を徹底的に批判したこともあり、確執が非常に激しかったと聞きます。そもそも、人生観や世界観の根本的な相違に基づく哲学的見解に妥協や歩み寄りはあり得ないと思います。但し、権威や名誉を伴って派閥が生じるのは、どの世界にも共通のことだと思います。

 学界での論争を通してみると、人の世の犯罪に関する議論は、高邁で格調高いものとなります。これは、「罪と罰」に関する問題が哲学的であることによります。遊ぶ金欲しさの強盗殺人も、女性を欲望の対象としてしか見ない連続強姦犯も、団藤氏や平野氏の手にかかると、途端に崇高な議論に姿を変えます。また、我が子を放置して餓死させる母親も、飲酒運転で商店街に突っ込む者も、ここではある種の気高さを伴った問題意識に取り込まれます。そして、このような抽象的議論は、犯罪に伴う狂気、理不尽や絶望といった人間の具体的な生き様よりも上位に立ちます。

 「日本の刑事法学は犯罪被害者を見落としてきた」という反省を語るとき、個々の学者に原因を求めることは、的を射ていないものと思います。学問的関心の設定や学問的良心の所在そのものを問題とするのであれば、「被害者の問題の重要性は劣る」というのも1つの立場だからです。但し、この学会の権威によって目の前の悲惨な犯罪を変形し、そこから派生する狂気を手持ちの理論に合わせて解釈し始めたとき、「犯罪被害者の存在を忘れることにした」ということ自体が忘れられます。そして、「世の中にこのような不条理な犯罪があっていいものか」という驚きが失われます。

 上記の引用部分については、「人の命を奪う」という最大の罪を許し、高度な道徳を獲得した者が、果たしてこの社会で精神を病まずに生活できるのか、単純な疑問が湧きます。庶民の日常生活は、物欲と物欲がぶつかり合ってトラブルが絶えず、人は些細なことも許せずにいがみ合い、生き馬の目を抜く者が上手く世間を渡り、欲望と思惑と保身とが渦巻くストレス社会での生存競争です。ここで、最大の罪も許してしまう浮世離れのお人好しが平穏に生きる場所を得られる確率は、ほぼゼロに近いと思います。

 団藤氏の死去に関し、「ご冥福をお祈りします」という声を多数聞きました。これは単なる揚げ足取りかも知れませんが、口先の虚礼でなく故人の冥土での幸福を祈ることは、天国や来世の有無に通じる問題であり、この点の結論は生と死の捉え方を根本的に覆します。そして、死後の生に関する死生観は、殺人や死刑に関する問題の結論を左右します。私は個人的に、この点の疑問を持たずに団藤氏の冥福を祈り、同時に「団藤氏の遺志を受け継いで死刑廃止を実現すべきだ」と主張する理論には、どうにも鼻持ちならないと感じます。