犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

行方不明

2011-06-22 23:04:32 | 時間・生死・人生
 大学の法学部で初めて民法を学び、失踪宣告に関する議論に接したとき、奇妙な感覚に捕らわれたことがあります。それは、ある者が失踪から戻ってきたとき、失踪宣告の取り消しによる遡及効により、別の場所で行われた法律行為の効果が問題になる場面です。私は、この「別の場所」が存在するという事実が妙に引っかかりました。客観的・鳥瞰的な視点を仮構していながら、結局は平凡な社会常識に従って、失踪されて残された側の「場所」を無条件に上に置いているだけだと思われたからです。但し、私の疑問は他の人にはなかなか通じず、哲学的な思考の癖を持つ者は、法律の客観的な思考には向かないことを思い知りました。

 東日本大震災から100日以上が過ぎても、行方不明者は7000人超であると聞きます。他方で、身元不明の遺体は1700人以上にのぼっていると聞きました。そもそも、あの凄まじい地震と津波に襲われた状況では、行方不明者の数字には信憑性がないそうです。一家の中で1人でも生き残っていれば、他の家族を行方不明者として届け出ることができますが、一家が全滅していたとなれば、行方不明者として届け出る者が誰もいなくなる状況が生じるからです。身元不明の遺体は1700人という報道を聞くと、戸籍や住民登録といった制度に関する細かい問題は、議論のための議論でしかないとの感がします。

 津波で一家が全滅した場合と、一家の中で1人だけ生き残った場合とを考えてみると、私個人の直観としては、「1人だけでも生き残ってよかった」とは素直に思えません。もちろん、一緒に亡くなっていたほうが幸せだったとは断じて思わず、人の命は何よりも重いという命題を譲ることはできませんが、その抽象論が現実に起きていることに全く結びつかない感じがします。あるテレビ番組で、家族で1人だけ残された被災者の姿を追い、「私が泣いていても家族は喜ばない」「前向きに生きる」というテーマでまとめているのを見ました。恐らく、庶民のお茶の間に入り込むマスコミは、無理をしている歪みの底にある狂気を報道することは不可能なのでしょう。

 私には、津波で一家が全滅したその全員の心情を想像することはできませんし、一家の中で1人だけ残された者の絶望を想像することもできません。胸が張り裂けるレベルにも達することがなく、この世にこのようなことが起きるのかと信じられない気持ちになり、実はその裏側では起こったことを信じています。世間的には、「生き残った命を大切にしたい」という論理は簡単に理解されますが、「このような人生には生きる意味がない」といった逆説的表現が理解されることは非常に稀だと思います。法律の客観的な思考においては、相続放棄の熟慮期間(3ヶ月)の延長といった現実問題のほうが重要でしょうが、人間が作ったルールの不備によって生じた人為的な問題であり、このような議論に足を取られていることに心が痛む感じがします。

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