犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

藤沢周平著 『逆軍の旗』

2011-06-09 02:03:18 | 読書感想文
p.268~ あとがきより

 ありもしないことを書き綴っていると、たまに本当にあったことを書きたくなる。この本には、概ねそうした小説をおさめている。しかし本当にあったことと言っても、こうした小説が、歴史的事実を叙述しているわけではない。歴史的事実とされていることを材料に、あるいは下敷きにした小説という意味である。だからこれは、べつに歴史小説と呼んで頂かなくてもいいのである。
 あったことを書きたくなるというのは、私の場合、一種の生理的欲求のようなもので、ありもしないこと、つまり虚構を軽くみたり、また事実にもとづいた小説を重くみたりする気持ちがあるわけではない。片方は絵そらごとを構えて人間を探り、片方は事実をたよりに人間を探るという、方法の違いがあるだけで、どちらも小説であることに変わりはないと考える。

 「逆軍の旗」は、戦国武将の中で、とりあえずもっとも興味を惹かれる明智光秀を書いたものだが、書き終わって、かえって光秀という人物の謎が深まった気がした。こういうところが、私を小説のテーマとしての歴史にむかわせる理由のひとつである。
 歴史には、先人の考究によって明らかにされた貴重な部分もあるが、それでもまだ解明されていない、あるいは解明不可能と思われる膨大な未知の領域があるだろう。そういう歴史の全貌といったものに、私は畏怖を感じないではいられない。そうではあるが、この畏怖は、必ずしも小説を書くことを妨げるものではない。むしろ小説だから書ける面もあると思われる。


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 「歴史」とは何かと言えば、辞書的には「事物が時間的に変遷した有り様もしくはそれに関する文書や記録」といった答えが導かれるでしょうが、これは同語反覆です。小林秀雄は、昭和16年に記された『歴史と文学』の中で、下記の通り「歴史とは死児を想う母親の哀しみである」との定義を与えています。
 「歴史は決して二度と繰返しはしない。だからこそ僕等は過去を惜しむのである。歴史を貫く筋金は、僕等の愛惜の念というものであって、決して因果の鎖というようなものではないと思います。それは、例えば、子供に死なれた母親は、子供の死という歴史的事実に対して、どういう風な態度をとるか、を考えてみれば、明らかな事でしょう。歴史事実とは、嘗て或る出来事が在ったというだけでは足りぬ、今もなおその出来事が在る事が感じられなければ仕方がない。母親は、それを知っている筈です。母親にとって、歴史事実とは、子供の死ではなく、寧ろ死んだ子供を意味すると言えましょう」。

 「歴史」とは別に「史実」「史観」という単語がありますが、このそれぞれの意味を掘り下げてみると、小林秀雄の言わんとしていることが少し理解できるような気がします。人文科学としての歴史学は「史実」すなわち「子供の死」のみを扱うことが可能であり、そこでは「史観」の対立が生じます。他方、歴史学では「死んだ子供」を扱うことができず、これを扱うには別の方法が必要となります。
 藤沢周平が時代小説の筆を執るようになった契機は、長女が誕生した直後に、その母親であるところの妻を28歳で喪ったことだと知りました。藤沢周平の小説のあとがきを読んで、小林秀雄との共通性を勝手に感じています。