犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

重松清著 『卒業』

2011-06-17 23:38:02 | 読書感想文
p.173~
 父が、もうすぐいなくなる。この世から消える。「死ぬ」とは、「いなくなる」ことなのか? 「消える」ことなのか? なにかが違う。そうじゃない、と心の片隅でつぶやいている自分がいる。じゃあ、なんなんだ――?
 わからない。40年も生きてきて、たぶん人生の折り返し点をすでに過ぎていて、僕自身の死に向かって少しずつ少しずつ近づいているはずなのに、僕はまだ、死について語る言葉を持っていない。大学まで卒業したのに、学校の勉強では誰もそれを教えてはくれなかった。

p.211~
 テレビのスイッチを切った。どんなにしても感情がまとまっていかないもどかしさを、ひさしぶりに思いだした。伊藤が死んでからしばらく、感情が砂のようになっていた。手のひらで集めて、こねて、「悲しみ」の形にまとめようとしても、形づくった端から砂はさらさらと崩れ落ちる。「怒り」の形も同じ。「寂しさ」も同じ。いっそ自分はまだ生きているんだという「喜び」にしてやろうかとも思ったが、それも無理だった。
 
p.277~
 ひとは、どんなときに死を選んでしまうのだろう。絶望でも悲しみでも、借金でも身内の不幸でも失恋でもなんでもいい、自殺に値する条件が揃ったとき、なのだろうか。そんなに割り切れるものではないような気がする。コップの水は満杯になってからあふれてしまうわけではない。ほんのわずかでも、コップそのものが傾いてしまえば、こぼれる。
 誰のコップも、決して空っぽではないだろう。コップは揺れている。きっと誰もが、それぞれの振り幅で。僕のコップは、いま、どれくらいの角度になっている? 通勤の電車で隣り合ったひとは? 通過駅のホームにたたずんでいるひとは?


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 重松氏のこの短編小説集は、最初から最後まで死の話で一貫しています。自殺、病死、若い死、年老いた死、自分の死、我が子の死、親の死、友人の死など、その死の性質からくる唯一の死や、残された者の立場から見た複合的な死が執拗に突き詰められてます。しかも、それが読みやすいシンプルな文章で何事もないように語られ、それによって日常的な等身大の人間を描き、人の心の微妙な動きを行間で捉えているように思います。

 このような正面からの死の話に接して、「暗い話」であるとの印象を持つか否かは、その人がこの場面で「明るい・暗い」という物差しを使うか否かという点と連動し、小説の側ではなく読み手の側の評価を語るように思います。平和な時でも、大災害の後でも、あるいは戦争の後でも、人生とはあらゆる死の準備の過程であることに変わりはなく、それを遠ざけているか否かの違いがあるのみです。そして、死を遠ざける希望のみが性質上他者に押し付けられ、まずは「明るい・暗い」という物差しで測られるのだと思います。