犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

風評被害と安全神話

2011-06-18 23:45:59 | 言語・論理・構造
 以下の文章は、私が法律事務所で聞いた話をもとに、私自身の個人的な感想として書き留めておきたいと思ったものです。

 風評被害とは、その言葉の定義により、本来は安全であるものについても「危険である」との根拠のない噂が立てられ、あらぬ損害を受けることだと結論できると思います。そうだとすれば、その「本来は安全である」ことの根拠が、安全神話によって安全とされているのであれば、風評被害の定義も変わって来ざるを得ないように思います。風評被害と安全神話は連動しているからです。

 4月上旬、放射能汚染の有無が判然としないために商品の流通が妨げられ、先が全く見えないという何人かの業者の話を聞きました。業者が望んでいることは、政府が一刻も早く安全宣言を出すことでした。ここで求められているのは、慎重さ・正確さよりも迅速さです。そして、絶対にあってはならないことは、政府による生活の保障がなされないまま、「危険である」との判定が下されることです。ゆえに、政府による生活の保障ができないならば、それは線を引くことによって「安全である」とのお墨付きを与えるべきであるということになります。ここにおいて、安全と危険がきれいに分けられます。

 神話という言葉は、その定義により、超自然的・形而上的な内容を含み、ゆえに科学的な根拠のないものとして使用されています。そして、「安全」と「神話」が組み合わされて「安全神話」という単語が使用されている以上、ここでは絶対安全であるという信頼感は根拠のない思い込みであり、錯覚にすぎないという共通了解があるように思います。従って、それが崩れることは当然であり、崩れなければそもそも「安全神話」という単語は使用されていないとも思います。

 「安全神話の過信」「安全神話を疑え」と並べてみると、ニーチェの「神は死んだ」に倣って、「安全神話は死んだ」という言い回しが浮かんできます。ニーチェの言わんとすることが、大衆の作った神はすでに死んでおり、絶対的なものはないということであれば、現在の状況は非常に似ていると思います。しかしながら、人々がこの世で経済生活を回していく限り、安全神話は完全に死ぬことがなく、何度でも復活せざるを得ないものだとも思います。

 少なくとも私は、原発事故のために生活が立ち行かなくなり、「このままでは首を吊るしかない」との業者の切実感を目の前にすると、神話でも何でも国民の大多数で信じている状態が正常であり、これを根本から疑いつつ通常の社会生活を送ることは不可能であると感じます。