犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

衆愚政治

2011-06-24 23:50:23 | 国家・政治・刑罰
 「人民が自由なのは、議会の議員を選挙する間だけであり、議員の選挙が終われば人民ももはや奴隷であり、無に等しいものになる」。私は大学2年生の頃、このジャン・ジャック・ルソーの『社会契約論』の一節が大好きでした。そして、まだ選挙権のなかった私は、日本の各種選挙の投票率の低さを嘆き、大人達に憤慨していました。
 私もすでに十数回の選挙を経験しましたが、その間に棄権もしました。棄権をしたのは、自分自身や家族の身に切迫した問題があり、投票どころではなく、正直に言って選挙などどうでもよいという状況に置かれていた時です。その後、「棄権した人は政治に何も言う権利がない」という意見を耳にした時には、ひどく馬鹿にされた気がしました。

 震災直後にもかかわらず内閣不信任決議案が提出され、衆議院の解散総選挙が取りざたされる状況には、「国民を置き去りにして政争に明け暮れる永田町」との印象しか湧きません。どの政党の支持者であっても、「足の引っ張り合いをしている場合ではない」「首相が代わっても具体的に何も変わらない」「力を合わせて震災対策をやるべき時に政治家同士で何をやっているのか」との声は一致しているようですが、その通りだと思います。
 憲法論において、衆議院の解散には、重要な民主主義的意義と自由主義的意義が認められています。前者は、国会は国権の最高機関であり、国会の意思が国民の意思と一致していない事態は背理であることによるものです。後者は、立法府の強大化による専断に対し、行政府が国民の自由を実質的に保障すべきことによるものです。このような演繹論からすれば、「被災者の暮らしの再建を待たなければ解散総選挙などできない」といった状況は、憲法学者も全く考えたことがなく、何らの影響力ある提言もできないように思います。

 大震災が起きる前には、今回の犠牲になった被災地の人々も、「無知な大衆」として一括りにされる主張が目立っていたように思います。福田首相から麻生首相に代わり、内閣支持率と自民党の支持率が上がったときには、民主党の支持者からは「劇場型政治に踊らされる愚民」への批判が多かったと記憶しています。他方、鳩山首相から菅首相に代わり、内閣支持率と民主党の支持率が上がったときには、自民党の支持者から「マスコミに踊らされる衆愚政治」への批判が大きかったと記憶しています。
 国政に関する「無知な大衆」といった全称命題は、日本全国の津々浦々への非難として投げかけられたものであり、当然ながら、宮古・大船渡・釜石・陸前高田・石巻・南三陸・気仙沼・名取・いわき・相馬・南相馬その他全ての被災地の大衆も含んでいます。そして、大震災が起きた結果、これらの土地の人々だけは「被災者の方々」と持ち上げられて、「被災地のことを考える」ことが政治的主張の理由付けとなっています。

 私が十数回の選挙を経験して学んだことは、「無知な大衆」への批判が最も強く表れるのは、落選者の敗戦の弁であるということでした。「時間が足りなかった」「私の力不足だった」というのは典型的なルサンチマンであり、その場ではそうとしか言いようがないのだと思います。また、「有権者の皆様に私の主張が上手く伝わらなかった」「私に投票してくださった方にはお礼とお詫びを申し上げたい」というのは、要するに自分を落とすような選挙民は愚かであり、間違っているということです。
 「無知な大衆」と「良識ある国民」が対立的に語られるとき、その違いは簡単だと思います。自分の支持しない政党の支持者、あるいは自分と政治的な意見が異なる者が「無知な大衆」です。他方、自分の支持する政党の支持者、あるいは自分と政治的な意見が同じ者が「良識ある国民」です。そして、あの日の震災を境に、特定の地域の人々については、「無知な大衆」も「良識ある国民」も合わせて「被災地の皆様」と呼ばれるようになったのだと感じます。

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