犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ニコラス・ハンフリー著 『赤を見る』

2011-06-19 23:58:45 | 読書感想文
p.9~
 私たちは、物質世界の仕組みを科学的に説明しようという試みには、おおむね異論はないが、じつは、人間の心の働きを――少なくとも、心のこの領域を――科学には説明してほしくないと願っている人は大勢いる。意識は、解明されてしまえば値打ちが下がるとでも思っているのかもしれない。

p.17~
 Sの脳の中で起きていることはおそらく、赤を見ている人ならどんな人の脳の中で起きていることとも似ているだろう。そして、その特徴的な痕跡は、解像度の高い脳スキャンを行えば、検出できるはずだ。
 しかし、Sにまつわるこの事実は、個人的な事実だ。なぜなら当然、彼がここにいて、目を開いていればこその事実だからだ。彼が赤を見ているのだ。とはいえ、個人的ということは、この事実がいかに驚くべきものであるかという理由の、ほんの序の口にすぎない。それよりはるかに重要なのは、この事実が、この世のありとあらゆる事実のうち、非常に特殊な部類、すなわち、客観的な事実でありながら主観的な事実でもあるという部類に属している点だ。

p.138~
 主体たるには何かの主体でなくてはならないとして、いったいどんな類のものに、主体にとっての対象の役割が果たせるだろうか。すべての経験が同等の価値を持つわけではない。少なくともこの役割においてはそうだ。それどころか、自然にあるさまざまな経験のほとんどは、まったく要件を満たさないだろう。自己の存在を支えるものを提供するだけの実体や精神的な重みが明らかに欠けているだろうから。
 では、どんなものならよいのか。主体が喜んでその主体になれるほどの経験に、必須なものとは何か。その答えは、私たちが感覚の経験の中核として今、確認したばかりの性質そのものだと私は信じている。すなわち厚みのある時間の中に存在することに伴う実体性だ。

p.170~ (訳者あとがき)
 普通、「経験は経験者なくしてはありえない」と考えるが、著者の目を通すと、「内なる世界の経験が、人間の存在の証となる」し、心身の二元性は錯覚にすぎず、それもこの錯覚は偶然に生じた誤り、あるいは適応不良の結果ではなく、自然淘汰のなせるわざ、すなわち進化の賜物となる。そして、極めつけが、先述の、「意識が重要なのは、重要であることがその機能だからだ」という逆説的な結論だ。


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 私は仕事柄、交通事故の裁判で、「その時信号は赤だったのか青だったのか」が争われる場面を多く見てきました。そして、目撃証言や防犯ビデオの解析を通じて、最後には一定の結論が出るのですが、私はこのような争い自体に言いようのない虚しさを感じていました。「信号は赤だったのに被告人は『青だった』と嘘をついている」のか、それとも「被告人には赤信号が青に見えた」のか、はたまた「被告人には信号は赤に見えていたのに青だと思い込んだ」のか、このような争いには決着がつきません。

 証拠裁判主義に基づく法制度は、証明の有無によって全ての事実を説明し、揺るぎない体系を確立することを求められます。これが確立できていなければ、法治国家の仕組みは成り立たず、社会の秩序は崩壊するからです。信号の赤と青を認定しなければならない法制度の議論からは、哲学の問題意識は机上の空論であると捉えられます。「そもそも赤とは何か」「自分が見ている赤と他人が見ている赤は同じなのか」という問いは、交通事故の裁判の際には全く役に立たないからです。

 法律の議論の虚しさ、哲学の議論の役立たずさは、それぞれお互いの議論の次元の差異から生じるものだと思います。私は、この差異が人の死の瞬間に冒涜をもたらしているように感じることがよくありました。交通死亡事故の客観的事実を後から証拠で確定しようとすれば、被告人は「私のほうは青信号でした」と言い張ることが可能であり、被害者のほうは「死人に口なし」であり、証拠不十分で無罪となる確率が高まります。その結果、死者が最後に見ていた信号は客観的に青でなければ死者は浮かばれなくなり、主観的な人生そのものが最後の瞬間に奪われることになります。

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