犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

天災と人災

2011-06-21 00:00:25 | 言語・論理・構造
 「誰もいない森の中で木が倒れたときには音がするのか」という哲学の問いがあります。一般常識に従えば「音がする」が正解となるでしょうが、音(空気の振動)と人間の知覚領域の関係が問われていることに気がつけば、このような逆説的な構造の問いには答えなど必要ではなく、問いを深めることが答えであるという結論に至るものと思います。そして、この問いを突き詰めていけば、「過去」はその個人の頭の中の記憶という形でしか存在できず、「未来」はその個人の死後には絶対に観察することができず、その実在性が危うくなります。こうなると、「過去」や「未来」という言葉も簡単には使えなくなってきます。

 人が誰も住んでいない場所で、どのような大地震が起きて地面が崩壊しようとも、津波が陸地を襲おうとも、それは「天災」とは呼ばれないものと思います。すなわち、人間以外の自然だけが存在し、人間が完全に排除された場所では、人災のみならず天災も起こらないということです。天災と人災の区別は、あくまでも人間の側から人間を中心に考えられ、使用されてきた概念だと思います。両者はこのような言語による分類である以上、天災の中にも人災は見つけられますし、天災と人災は二者択一であるとも二者択一でないとも言うことができます。これは、哲学的な逆説の問いに比べると、問いが深まらないと感じます。

 天災か人災か、少なくともその2つのいずれかに分類される出来事である限り、そこからは被害額の試算が行われます。それは通常、何十億円、何百億円という額であり、1人の人間が一生かかっても稼げない金額です。この金額の前に打ちのめされる現実が、人間の生存に直接的な影響と与えているように思います。結局、人が住んでいない場所で何が起ころうとも経済は動かないということであり、経済が動かなければ何も問題はないということです。そして、自粛や風評被害は経済を沈滞させ、復興は経済を活性化させる以上、生活再建や補償の問題が現実化する場面では、前者は後者に覆い尽くされることになるのだと思います。

 天災と人災の区別は、割り切れないものを割り切ろうとする場合に、二元論的な思考によって多用されているとも感じます。一時期、天災でも人災でもなく「菅災」(菅首相の災害)であるとの批判が高まったのが特徴的です。天災という捉え方は、人災ではない以上諦めなければならないとの強制力を有していますが、それまでの間に「地球にやさしく」などの思考で人間が自然を支配下に置いてしまえば、急に手のひらを返すのも難しくなると思います。ある特定の主張に「天災だから」との理由付けを用いるのであれば、同様の理由で「人災だから」との理由付けも用いることが可能であり、結局は両者の区別が問題にされているわけではないとの印象を受けます。