犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

佐野洋子著 『がんばりません』

2011-06-27 00:04:11 | 読書感想文
p.253~

 私は、本を読む時の立場というものは大変難しいものであると知った。私が何者であるかさだかに認識出来なかった幼い頃、私は何にでもなれた。その本の中の一番いい役、出番の多い役、人から愛される役、金持ちの役、美人の役、人から同情される役、あるいは貧しくとも心清く正しく貧しさと戦うけなげな少女の役、いつも「ええ、いいえ」「あら、そんなこと」などと煮え切らない女でも、それが男に命がけで愛されている主人公であればそれになった。

 ここのところの私の立場は、優しさも美しさもあきらめて、かつて(今も変りはないが)貧しかったということにつきている。もはや私はシンデレラには共感はせぬ。かつて貧しかったものだけに共感するのである。しかもその中で、健気に清く正しく明日を信じてじめじめと涙を流して戦う人はうっとうしいのである。貧しさの中で、こすからく陽気に嫉妬心とひがみをかくしていけしゃあしゃあと生きる人に共感する。

 先日、名家の出で国際的知識人である犬養道子女史の『ある歴史の娘』という本を読んだ。祖父はリベラルな政治家であり父は白樺派の詩人でのちに大臣になる。幼い彼女は昭和の大変動期を、祖父の狙撃を目撃し、大戦に突入する日本を、その日本を動かしあるいは動かせなかった人々と親しく生きる。大変な立場の人である。教科書に現れなかった生々しい政治の実態を知って私は感激したか。

 私は1頁読むごとに血が頭にのぼり本をたたみにたたきつけるのである。「自慢すんな自慢」 そして又いそいで本を拾っては読みたたきつけては読み、「自慢じゃない表現は出来んのか、自慢じゃない表現は。この様に貴重な歴史的立場に居た運命を自慢たらたらで表現しなかったら、これは大変なもんなんだぞ、その根性の悪さを誰も直してはくれんかったのか、もったいない」と私は叫ぶのである。


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 小説や物語を読む時の「自分の立場」を把握することは、感情移入の癖を見抜くことであり、人間の主観の極致であると感じられます。それと同時に、その把握からもう1人の自分の視点が生じ、自分を客観的に捉えることが可能となり、間主観という意味での厳密な客観性も生じてくるように思います。

 社会科学や政治論を読む時の「自分の立場」とは、究極的には賛成と反対の2つしかなく、全てはそこからの距離でしか測れなくなるとも思います。自分とは異なる価値観も等しく尊重しようとすることは、当初の目的とは裏腹に理論武装の技術だけが磨かれ、主観的な結論を正当化するための客観的な論証を要求せざるを得なくなるとの印象を持ちます。