犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

三浦しをん著 『まほろ駅前多田便利軒』

2011-06-06 00:03:10 | 読書感想文
p.170~

 多田は一年に一度しかここに来ない。だが、彼女は先月も来た、と多田は見て取った。今日も、明日になったら彼女は来る。たぶん来月の明日も。区画内の草を簡単にむしり、迷った末に枯れた花を抜き取った。自分がいた痕跡を、多田はなるべく残したくなかった。忌日ごとに罪の記憶と向きあいにくる彼女に、同じように忘れられずにいるままの自分の気配を、感じさせるわけにはいかなかったからだ。
 いや、嘘だ、と多田は思う。それならばどうして俺は、彼女が頻繁にここを訪れていることを知って、安堵しているんだ。古い手紙を鍵のかからない引き出しにいつまでも取っておくように、これ見よがしに墓を綺麗にしたりするんだ。

 多田はもう、自分の本心がどこにあるのか、わからなくなっていた。忘れよう、あれは事故だったんだ。だれかが悪いわけではなかったのだと、きみも俺も知ってるじゃないか。俺も自分を赦す。だからきみも、きみ自身を赦してくれ。
 そう伝えたいのも本当だ。だが同時に、未だに毎月墓地へ足を運ぶ彼女のことを考えると、暗い喜びを覚えるのも本当だった。自分と同じように、二度と心の底から幸せを感じることなく生きていく女がいる。この地面の下に眠る、小さな容器に収められた白い骨。忘れるな。永遠に赦されるな。きみも、俺も。


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 人間の様々な営みから生じる不可避的な問題について、社会科学による客観的な言語体系によって人間を裁くことが可能なのか、私がこのような小説を読むたびに感じるのはこのことです。法律家の書く要件事実の文章では直木賞が取れないのは当然ですが、この小説家の筆力が要件事実論ではマイナスに作用するという言語体系のルールが、果たして人が人を裁く際に最も相応しいのかということです。

 要件事実論に基づく陳述書においては、時系列の遵守が最低条件です。回想場面の挿入など論外です。主語と述語は一義的でなければならず、複数の解釈を許容してはなりません。また、過去形であるべき文章に現在形を使うことも厳禁です。事実と意見は明確に分けなければならず、推測を事実のように書いてはなりません。そして、最も大事なことは、微妙な心境の変化を裁きの場に持ち込んではならず、勝訴から逆算した断言を自信満々に行うことです。

 「法律の素人の役に立たない感情論」とは、要件事実論の主要事実・間接事実・補助事実の区別による立体的構造からの位置付けであり、その構造はそのような言語体系の技術を身に付けた専門家による遠近法の結果である以上、その属性は言葉の側に最初から含まれているわけではないとの感を持ちます。