犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

大川小学校

2011-06-15 23:54:40 | 時間・生死・人生
 その日の午前中まで被災地ではなかった場所に「被災地」という呼び名が強制的に付され、その瞬間まで生きていた人間が「遺体」と呼ばれ、物質的ではないすべての価値観が津波で崩壊させられた日から、暦の上では3ヶ月以上が経ちました。「被災地」という呼び名が付されなかった場所で暮らしている私は、その惨状に言葉を失った瞬間の全身の感覚が、徐々に思い出せなくなりつつあります。
 このような中で、絶句の瞬間に引き戻される言葉がいくつかあります。そのうちの1つが「大川小学校」です。全校児童108人のうちの死者・行方不明者が74人、教職員13人のうちの死者が10人であった石巻市立大川小学校です。

 言葉が語られることによって過去と未来の区別が騙られ、過去は結果論を唯一必然の結果として騙り、未来は推測を反証不能の可能性として騙ります。この嘘は、一般的には嘘と呼ばれるものではありませんが、それゆえに聞く者よりも語る者が騙されるように思います。
 「未来ある多くの子供達の命が奪われた」という言い回しは嘘です。子供達に未来があり、無限の可能性があるならば、その未来や可能性がないことはあり得ず、子供が大人にならずに子供のまま死ぬことはないからです。それならば、「多くの子供達の未来が奪われた」と表現すれば嘘にならないかというと、これも嘘です。何かが奪われるならば、それは奪われる前に一度は存在しなければならず、一度も存在しないものが奪われることはありません。

 「小学校時代は生涯にわたる人間形成の基礎を培う時期である」「人は小学生の頃にその先の人生を生き抜く力を獲得する」「この国の未来を担う小学生」などの言い回しも真っ赤な嘘です。「生涯」や「その先の人生」が存在しないならば、それが存在するかのような語りは虚偽だからです。少なくとも、命を落とした子供達においては、これらの存在しない将来を目的として獲得された価値(自立性・社会性・豊かな感性・創造性など)は無駄となっています。
 また、「この教訓を生かして未来の子供達には同じ思いをさせないようにする」という結論の出し方は、生き残った者の特権に甘えた大嘘だと思います。「この教訓」というものが、未来を担うはずの子供達は必ずしも未来を担うわけではないとの事実を再認識させられたことにあるならば、その不確実な将来の一点に未だ存在しない人間を誕生させて片を付けることは、虚構に虚構を重ねるものです。

 大川小学校に関しては、様々なメディアで取り上げられており、私自身の感覚も動いています。壊滅した小学校の跡地で我が子の痕跡を探す両親の姿を見ると、絶句するしかなく、私の時間も3月11日で止まります。これに対し、津波が来るまでの24分間でなぜ逃げられなかったのか、他に採るべき方法があったのではないかという検証の報道を見ると、私の時間は動きます。言葉はいくらでも嘘をつくことができ、それによって時間は止まったり動いたりするものであると感じます。
 大川小学校で起きた出来事を語るとき、時間が止まっていることを共有しなければ、その言葉は不正確さを免れないと思います。時間が動いている限り、形而下的な問題意識は「責任の所在」を問い、行き場のなくなった議論は「死んだ者は永遠に帰らない」との形而上の観念に飛び、さらに「過去を振り返らず未来を見る」との結論が幅を利かせることとなります。この文脈で語られるのは嘘ばかりだと感じます。