犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

遺影 その1

2010-07-18 00:02:44 | 時間・生死・人生
 裁判所では、予想外の出来事が突然起きることがある。刑事裁判の法廷のスケジュールは10分単位で一杯に組まれており、それに合わせて拘置所から被告人が護送されてくる以上、直前に動かすことなどできない。裁判所書記官にとって、突発的な出来事に対する偽らざる第一印象は、「面倒だ」「早く済ませたい」である。
 特定の職員へのストーカー的な当事者を追い返すことや、窓口で理屈をわめき立てるクレーマーに屁理屈で毅然と対抗することは、神経をすり減らすものではあっても、ある意味単純な職務と言ってよい。それは、外側から相手の不正義を叩き潰し、自らは正義を守り抜く過程である。これに対し、自らの内側において、どうにも名付けられない複雑で嫌な感情が残ることがある。
 このような感情が上手く処理できなければ、頭の中は分裂して爆発しそうになる。これを避けるためには、「大人」にならなければならない。ここで言う大人とは、理性によって冷静かつ適格な判断を下せる者のことではない。大人とは、「重い職責」「社会人の責任」などの理由によって、自らの本心を誤魔化して正当化する処世術を身に付けた者のことである。

 廷吏からの報告は、被害者の母親が法廷に遺影を持ち込もうとしたので止めたところ、さらに懇願されて困っているというものであった。検察庁に問い合わせても、「そんな話は事前に聞いていない」の一点張りで埒があかなかった。法廷への遺影の持ち込みについては、認められる裁判所が多くなってきたものの、最終的な判断は裁判官の訴訟指揮権によっている。そして、彼(裁判所書記官)の所属する刑事部の裁判官は、法廷の秩序を非常に重視しており、遺影の持ち込みを絶対に認めないという考えであった。
 以前の自動車運転過失致死罪の裁判でも、母親が風呂敷に包んで胸に抱えているものが遺影であるとわかると、裁判官は激怒し、すぐにしまうように命じた。母親が戸惑ってすぐに指示に従えないでいると、裁判官は容赦なく退廷を命じた。ハンカチで顔を押さえて法廷から出た母親は、その後の法廷にも二度と姿を見せることはなかった。判決の日、彼はやり切れない気持ちを抱えていたが、その日の飲み会の席で、裁判官は彼女の行動への怒りを書記官にぶつけてきた。
 法廷は遺族の自己満足のためにあるのではない。証拠によって罪を認定して罰を言い渡す厳格な刑事裁判と、被害者の救済とは全く別の話であり、混同する素人が多すぎる。こんなことを認める裁判官が増えてきたのは由々しき事態だ。神聖な法廷の権威を汚す気なのか。何を勘違いしているのか。刑事裁判の厳しさが何も分かっていない。書記官一同は、裁判官の生真面目な矜持に押されて、ひたすら相槌を打つだけであった。

 彼はその日も、念のため、裁判官に指示を仰ぎに行った。そして、答えは予想通りであった。「誰のための裁判だと思ってるんだ」という裁判官の怒号は、被害者の母親に向けられた言葉でもあり、同時に彼の認識を叱責するものでもあった。彼の背中に向かって、裁判官はなおも怒っていた。「死んだ人の無念が何だかんだって、死んだ人は死んでるんだから本人が無念な訳がないじゃないか? 死んだ人が無念だと思っている人間が、自分で勝手にそう思ってるだけの話だろう? 検察官も何で説得できないんだ?」
 時間は15分しかない。主任書記官は、彼と一緒に母親の説得に向かうと言った。この主任書記官は、裁判官の腰巾着であり、自分の勤務評定を高めるためだけの行動に覚えた。しかし、この主任書記官には、ガンで30代で亡くなった同僚の葬儀に参列した際、その遺影に釘付けとなり、しばらく涙していたという一面もある。人は、組織の中では誰しも仮面を被るものだ。そのうち、素顔と仮面の区別が付かなくなり、人生全般のものの考え方が規定されるようになる。
 彼は、主任とは別に庶務課に走り、法廷の近くの会議室を特別に開けてもらった。本来であれば、課長の決裁がなければ開けることはできないが、その場にいた係長が全てを呑み込んだ上でOKを出してくれたのである。不祥事を怖れ、融通の利かない職員ばかりの中で、このような人物が1人でもいると非常に助かる。

 会議室の中では、主任書記官の前に、遺影を胸に大事そうに抱えた女性が座っていた。遺影の中の男性は20代半ばと思われ、彼と同じくらいの年齢であった。被害者の目は、彼を一直線に見つめていた。同じ頃にこの地球上に生まれ落ちた人間が、どういうわけだか1人は生きており、もう1人は生きていない。これは単なる偶然であり、彼が努力していたわけでもなく、被害者の努力が足りなかったわけでもない。
 遺影を抱えた母親も、彼の母親と同じくらいの年齢であった。彼は、その現実をできる限り意識しないようにした。裁判はこの世のルールであり、あの世のことには太刀打ちできない。罪に対する判断はできるが、死に対する判断はできない。「死んだ人はどこにいるのか」という問いをぶつけられれば、裁判官は答えに詰まる。それゆえ、厳格な刑事裁判の威厳を保つためには、そのような問いの価値を低めておき、予め答えるに値しない問いだとしておく必要がある。
 主任書記官は、まず被害者の母親に対し、本当に起訴状に記載された被害者の母親であるのか、免許証や保険証などで「本人確認」をしたいと言った。その瞬間、血の気が引いていた母親の顔が、さらに強張ったように見えた。公的機関における証明の手段としては、免許証の写真には絶対的な価値があり、遺影の写真には価値がない。しかし、免許証によって被害者の母親であるという確認ができなければ、それは彼女にとってどんなに幸せなことだろう。

(続きます)

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フィクションです。