犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

俵万智著 『魔法の杖』

2010-07-22 00:04:29 | 読書感想文
p.17~
 なんにも書いてなかったら、短歌の主語は“私”なんですね。だから、短歌という詩の形は、宿命的に日記的になりがちな面を持っている。身の上話を聞いてもらうために歌を作っているわけではありませんし、表現としての自覚を、特に持っていないと非常に危険です。

p.43~
 前川佐美雄さんのやり方は、自分の力だけでは歌はできない、歌の神様が自分についてくれないとできない、歌の神様はどうやったら自分についてきてくれるか、そのために勉強もするし、神様に気に入れらるように神様がつきやすい状態をつくる。それには、ふだん自分の自己主張みないなものに凝り固まっているわけだけど、それをできるだけ排除していって、自分は巫女さんみたいに、神様の言うことを書くぞという状態にいくまで待っているというやり方を、前川さんはなさっている。自分が書いただけだと、せいぜい自分と等身大の作品、自分より小さい作品ができてしまう。

p.190~
 すごい写実は、写実に徹していながらもちろん飛躍というのを含んでいる。それによって世界が大きくなったり、深くなったりする。


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 自分が表現したいものを表現するのではなく、巫女が神の言うことを聞いて書くという姿勢は、すべての芸術に共通するものだと思います。しかも、ここで言う神が信仰の対象としての神ではないとすれば、その神とは自分自身であり、さらにそれを表現するのが自分自身ではないとすれば、その先は狂気だと感じられます。

 自己主張、自己実現のために芸術という手段を借りるのであれば、それは生きることと表現することが別々の何かであり、たとえ表現を止めても死ぬことはないでしょう。これに対し、手段を借りているのではない極限の芸術は、表現せずにはいられないという苦しみであり、生きることと表現することが一致している逃げ場のない状態だと思います。