犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

西原理恵子著 『この世でいちばん大事な「カネ」の話』

2010-07-24 00:07:50 | 読書感想文
p.155~
 もし、一千万円分の紙幣を目の前に積まれたら、誰だって「これは自分の大切なカネなんだから、誰にもとられないよう、どこかにしまっておこう」って思うんじゃないかな。ところが、同じ一千万円でも、インターネットの画面上の数字になっちゃうと、あたりまえになきゃいけないそんな感覚が、どっかで簡単に麻痺しちゃう。
 手で触ることのできない、ただの情報みたいに見えてしまう「カネ」と、そういう匂いや手触りのある「カネ」とでは、何がどうちがうんだろう? わたしは、やっぱり、「カネの重み」「カネのありがたみ」ってものがちがってくるんじゃないかと思う。
 自分で努力しないで手に入れたお金のことを「あぶく銭」っていうでしょ。自分が汗水流して稼いだ「カネ」じゃないから、湯水のように使おうが、痛くもかゆくもない。手で触れる「カネ」にくらべると、手で触れない「カネ」、数字の羅列に見える「カネ」の世界って、そういう「あぶく銭」の感覚と、すごく近いと思った。

p.214~
 気が遠くなるくらい昔から、何百年も前から、社会の最底辺で生きることを強いられてきた人たちがいる。いつまで経っても貧乏から抜け出せるわけがない。それで何代も何代も、貧しさがとぎれることなく、ずーっとつづいていく。
 そうなると、人ってね、人生の早い段階で、「考える」ということをやめてしまう。「やめてしまう」というか、人は「貧しさ」によって、何事かを考えようという気力を、よってたかって奪われてしまうんだよ。貧困の底で、人は「どうにかしてここを抜け出したい」「今よりもましな生活をしたい」という「希望」を持つことさえもつらくなって、ほとんどの人が、その劣悪な環境を諦めて受け入れてしまう。
 考えることを諦めてしまうなんて、人が人であることを諦めてしまうにも、等しい。だけど、それが、あまりにも過酷な環境をしのいでいくための唯一の教えになってしまう。


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 形而上の問題を扱う哲学は、人間の実生活とはとことん相性が悪く、何も役に立たない抽象論であると言われます。しかしながら、人間の「考え」によって貨幣に価値が与えられるのだとすれば、お金よりも「考え」が先にあるのは当然のことであり、その「考え」が形而下の貨幣経済を司っている限り、哲学はそこまで役立たずではないでしょう。インターネットの画面上の数字の羅列の危険性を述べる西原氏は、この辺りの感覚が非常に鋭いと思います。

 一般的に、お金がないと生きられないという場合の「生きる」とは、生活や生存の意味であって、実存や存在の意味ではありません。そして、前者は「食べる」ことの象徴であり、後者は「考える」ことの象徴であり、ここに哲学と実生活との相性が悪い原因があるように思います。西原氏は、人はお金がなければ生きられないという論理の途中に「考えようとする気力」を入れており、ここにおいて「食べる」と「考える」が上手く結ばれているように感じられます。人間の「考え」によって貨幣に価値が与えられるのだとすれば、まさにその考えに覆われた社会の中で貨幣を持たないことは、考える気力を奪われるという結論に至ると思います。

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