犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

中島義道著 『人生に生きる価値はない』

2010-07-04 23:57:40 | 読書感想文
p.58~

 レヴィナスについては、(慶応大学の)斎藤慶典さんや(東京大学の)熊野純彦さんなど、信頼できる人の翻訳書や解説書が次々に出て、次第にわかってきた。

 私は他者の「顔」という概念がわからなかった。他者に対する「無限の責任」という概念がわからなかった。未来は他者で「ある」という等式もわからなかった。斎藤さんの情熱的な解説書を読んでも、熊野さんの叙情的な解説書を読んでも。だが、最近のことであるが、『全体性と無限』の中で「他者とは同一化してはならないもの」という文章に出会って、一挙にわかった。「他者を理解する暴力」という自分がかねがね考えていたことに重ねて「ああ、そうなんだ」と腹の底からわかった。

 「こちらから」一方的に理解することによって同一化を図ってはならないこと、それは傲慢以外の何ものでもないこと、むしろ他者の絶対的隔絶を尊重すること、すべてを「向こうから」見直すこと、彼が倫理学という名のもとに何を目指していたのかが、自分なりにわかった。すると、どの文章も謎が解けていくようにするするとわかっていったのである。


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 私はこれまで、修復的司法の考え方に対し、しばしば言いようのない違和感を覚えてきました。癒されるような悲しみは本当の悲しみではなく、本当の悲しみは死ぬまで癒されないと思うからです。もちろん、「立ち直るな」と求めることは善意ではありませんが、「立ち直れ」と求めることの背後に迷いがなければ、それは善意の押し売りになるとも感じます。もともと、支援・援助・救済という人間の行為には、それが自己目的でなければ政治的な意図が働き、かといって自己目的化すれば偽善であるというジレンマが付きまとうのだと思います。

 支援される者が、「最終的には立ち直らなければならない」との要求に追われるのであれば、それは修復的司法が「他者を理解する暴力」であることが示されるように思います。ここで、この暴力から逃れる道があるとすれば、それは「悲しみは死ぬまで癒されない」「一生立ち直ることなどできない」という逆の要求を突きつけることになり、修復的司法の不可能を示すことになります。

 もちろん、支援される側においても、「支援者は自分のことを『立ち直りに向かっている』と思っている」という形で一方的に理解しており、これも単独で見れば「他者を理解する暴力」でしょう。しかしながら、支援・援助・救済という行為の力関係において、支援される側には暴力を振るう権利が奪われているように感じます。仮説の検証を要する社会科学は、他者の絶対的隔絶を尊重すべき場面には不向きであると思います。