犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

遺影 その2

2010-07-26 23:54:48 | 時間・生死・人生
(その1からの続きです。)

 被害者の母親は、裁判官が母親の存在に困っているのではなく、息子の存在に困っているのであれば、いくら母親を説得しても話がすれ違うのは当然だと語った。そして、自分は裁判官を困らせるつもりはなく、裁判官のほうで勝手に困っているのであれば、すでに答えは出ているはずだと述べた。また、最終的に残されている問題は、命を奪った犯人がここにいるのに対し、命を奪われた息子がここにいないのは何故かということであり、犯人がその問題に正面から取り組める場所は、今の社会のルールの下では裁判の法廷だけであるとも語った。母親の言葉を聞くうちに、彼は、このような言葉は形式論理では他者に伝達ができず、書記官が裁判官に伝達するという行為そのものの限界を知った。
 果たして、主任書記官は、露骨に腕時計に目をやりながら、「どうしても遺影を法廷に持ち込まなければならない理由は何ですか」と聞いた。母親はその質問に対し、写真を持ち込みたいのではなく、被告人に息子の姿を見せつけたいのでもないと答えた。さらに、裁判の光景や被告人の様子を息子に見せなければならないのだと語り、その上で、この写真の目が裁判を見ることができないのは当然のことであり、自分は何かの宗教を信じているわけではないとも強調した。主任書記官はますます困惑し、苛立ちを含んだ声で、「ここはそのようなお話をお聞きする場ではありません」と言った。
 母親は、裁判は単なる儀式にすぎず、1時間程度の法廷では、加害者の一生涯をかけた反省の念の有無などわかる訳がないと語った。他方で、自分が持っている遺影もただの儀式にすぎず、自分が息子の死を受け入れることはあり得ないと言った。そして、この遺影も裁判も儀式であるならば、この写真が遺影であると名付けられており、その名付けられた原因がこの加害者の行為である限り、遺影の目は裁判を見ないで他に何を見ればよいのかと冷徹に語った。現在の社会制度において、加害者が裁かれ、事故の内容が明らかにされ、加害者が反省したりしなかったりする場所は、裁判の法廷をおいて他に存在しないからである。

 彼は、母親と主任書記官との会話に噛み合う余地が皆無であることを思い知らされ、両者のやり取りを黙って聞いていた。主任は、母親の言葉が途切れた一瞬の隙を突く方法により、話を有利に進めていた。主任が伝えていたことは、次の3つだけである。第1に、遺影が持ち込めないのは裁判官の絶対的な判断であること。第2に、書記官は裁判官の判断にすべて従うべきこと。第3に、当事者は直接裁判官と話すことができず、すべて書記官が話を聞いて伝えるということ。主任は、この3つの論理の中だけでグルグルと話を回しており、全くブレることがなかった。
 彼は、この主任の論理は絶対に論破されないことを知っていた。主任は、なぜ自分がこの論理を持ち出して目の前の母親を説得しなければならないのか、自分自身の言葉で語ることができないし、語ってはいけない。それが職場というものであり、複雑な制度を運営する社会人の義務でもある。特に国民の税金から給料を得ている国家公務員は、前例がないことは、上級官庁の通達を待たずに勝手にしてはならない。仕事場において、人間はそれぞれの役割を演じ、仮面を被る。このような人間の口から出た言葉は、人が全人生を賭けて考え抜き、ギリギリまで突き詰め、絞り出した言葉ではあり得ない。
 他方で、この母親が1つ1つ噛みしめて語る言葉には、彼女の全人生が載っており、仮面を被る余地がない。彼は、仮面を被ったまま沈黙している自分自身がもどかしくなり、自然と遺影の視線に向き合う形になった。もしも、死んだのが自分であれば、俺の母親はどうするだろうか。この母親のように、俺に裁判を見せなければならないと思い、その思いだけで命をつなぐだろうか。当たり前である。そうでなければ俺の母親ではない。いや、俺の母親ではなく、母親というものではない。公私混同を愚直に非難できる者は鈍感である。人間にできることは、すでに混同している公私を前にして、必死に抗うことのみではないか。

 被害者の母親はもう一度、「写真が裁判を見ることはできないなんて、そんなことは言われなくてもわかっています」と穏やかに語った。その上で、どうして息子が法廷にいないのに裁判など開けるものか、その論理矛盾を指摘した。彼にはその問いの意味が理解できた。もし、この写真の中の男性が俺であったなら、俺は裁判の結果を見届けたいと思うに決まっている。俺の死に意味があり、翻って俺の一生に意味があったと言うためには、突然殺された理由を知らされなければ話にならない。そして、それを俺に知らせてくれない母親は、俺の母親ではない。遺影の顔は彼の顔でもあり、目の前の母親の顔は彼の母親の顔でもある。
 主任書記官が沈黙していると、目の前の母親は、さらに話を続けた。加害者が裁判を受けられるということは、人生をいくらでもやり直すことができるということだ。これに対して、息子は、人生のやり直しが効かない。加害者が遺影によって影響を受けるということは、生きているからこそ影響を受けることも可能だということであり、その現実が絶望の正体である。加害者がこの絶望に直面せず、息子がいない法廷で謝罪したとして、一体誰に謝っていることになるのか。もちろん、私に謝ってほしいのではない。息子が法廷にいるのであれば、私はいなくてもいい。
 主任書記官は、母親にひとしきり話させた。彼の周りでは、これを「ガス抜き」と呼んでいた。経験則上、人は激情に駆られたとき、集中的に怒りを誰かにぶつけて鬱憤を晴らすと、気が晴れて大人しくなることを、窓口の職員は保身術として知っているからである。被害者の母親は言葉が尽き、写真は鞄にしまうことで合意し、法廷に向かった。そして、遺影の顔は彼の顔ではなくなった。その間、彼は一言も口を開かなかった。刑事裁判は、被告人の更生に意味を認める。他方で、死者の人生に意味があったと認めたいという思いは、意味を与えるという形でしか捉えられていない。当たり前ではないか。現実を見よ。だからこそ、被害者の母親は、「写真が裁判を見ることができないのは当然だ」と言ったのではないか。

 法廷が終わると、主任書記官は、彼に感謝の言葉を述べた。あのような場面では、1人ではなく2人で説得に行ったほうが効果的である。しかも、話が拡散しないように、1人は黙っているほうが効果的である。彼は、妙な褒められ方をして居心地が悪かった。主任書記官は、心の奥底では、犯罪被害者遺族が法廷で遺影を掲げる権利を認めるべきだと考えていることを彼は知っている。あの場所において、頭の中では母親に共感しておきながら、実際には一度も口を開けなかった彼自身が最大の卑怯者だろう。組織の結束という大義名分の下で、保身の欺瞞に鈍感になるのが「大人」の行動だとすれば、彼は子供からも大人からも逃げている。
 主任書記官とは、様々な立場の人々の利害関係が交錯する中心に位置する官職であり、典型的な中間管理職である。職務上の過誤の恐怖から来る心労に耐え切れなくなる者も多い。彼の上司の主任は出世が遅く、40歳を過ぎてから初めて主任書記官となった人である。その理由は彼にも良くわかる。1つ1つの事件に丁寧に向き合い、当事者の心情に寄り添う者は、そのうちに身が持たなくなる。適当に力を入れたり抜いたり、上手く自分の良心を誤魔化す技術を身に着けなければ、主任書記官の激務は務まらない。そして、彼の上司の主任は、他人の心情を思いやる性格を無理に押さえつけ、鈍感の仮面を被り続けることにより、主任の役割を演じている。それだけに、その仮面は簡単には外れることがない。
 主任は彼に対し、自分は20代、30代と力を十分に溜めてきたことにより、40代で主任になれたのだと言った。そして、今日のような経験は必ず将来に生きるものであり、20代は下積みの時期に鍛えられることが非常に大切なのだと言った。彼は、適当に返事をしながら、遺影の中の彼自身を思った。20代が下積みの時期たり得るのは、40代まで生きた場合に初めて可能となるものであり、20代を生きている今この瞬間は、下積みの時期ではあり得ない。少なくとも、20代での死がすぐ明日に迫っているかも知れないことの確実性に比べれば、40代まで生きることの確実性など、比較にならないほど弱いものである。裁判に携わる者は、「傍聴席の遺影は適正な裁判に影響を与えるか否か」という問題を解く心の構えでいる限り、仮面を被った人間同士が演技をしていることを忘れる。

 その日の彼の最後の仕事は、報告書を作成し、裁判官の決裁に上げることだった。彼は、「裁判官が遺影の持ち込みを禁じた」という部分を、「傍聴人が法廷の秩序を害する恐れがあった」と訂正するように命じられた。おまけに、報告書は正確に記載するよう、裁判官からこっぴどく叱られた。

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フィクションです。

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