犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

奥田英朗著 『最悪』より その1

2010-07-11 00:37:35 | 読書感想文
p.184~

 やっとのことで腰を伸ばすと、両方の胸に男の手があった。支店長の手だった。背後からみどりは乳房をつかまれていた。
 何よこれ、と思いながら言葉が出なかった。支店長の手は別の生き物のように動き、耳元に荒い息がかかった。男の顎がみどりの肩に乗っかっていた。冗談じゃない。信じられない。ふざけるな。
 なのに言葉が出てこない。前屈みになると、支店長の腰がみどりの尻に当たった。いったん体を折ると、もう背中と腰は完全に密着していて、動くことすらできなかった。いやだ。死んでもいやだ。
 強くわしづかみにされた。みどりは振りほどこうとするが力が入らない。男の激しい息遣いが耳元でこだましている。そして股間に手が伸びてきて、みどりは戦慄した。男が股間をまさぐる。みどりの首筋に男の舌が吸いついた。そのおぞましさに、みどりの腰がくだけた。あんた支店長だろう。こんなことしていいと思っているのか。
 
 その場に5分ほどいて、気持ちの整理をつけようとした。もちろん動揺は収まらなかった。自分の胸を抱えて丸まったところで、悔やし涙が出てきた。一刻も早く家に帰ってシャワーを浴びたかった。


p.280~

 みどりが木田に促されて席につく。椅子に腰を降ろした途端、玉井が口を開いた。「不愉快だよ、そういう話は」。
 あまりの威圧的な声に、みどりの体が固くなる。思わず玉井の顔を見た。「子供じゃないんだから。ちょっと抱きつかれたぐらいで大袈裟に騒がないでくれよ」。たちまち全身から血の気が引いていくのがわかった。どうして自分がこんな言われ方をされるのか、信じられなかった。
 「だいいちそんなことで目くじら立てたら、日本中の会社という会社は、男と女を別々に働かせなきゃなんないよ。もうちょっと免疫ってものをつけてもらわないと、この先、やっていけないよ」。何か言わなきゃ、と思うのに声が出てこない。考えも浮かばず、頭の中が真っ白になった。

 「だいいちさあ、それ本当の話なの。君、酔ってたっていうし、介抱されてるのを何か勘違いしたんじゃないの。支店長って人は、たしかに厳しいところもあるけど、いつもこの支店のことを考えてるいい人なんだよ」。
 「いえ、本当です」。やっと言葉が出た。ただし目には涙も滲んだ。
 「証拠は」。そんな台詞が出たことに驚いた。証拠? 警察の取り調べじゃあるまいし。みどりが唇を噛む。堪えていないと感情が溢れてしまいそうだった。みどりは呆然と立ちつくす。突然、現実の壁が立ちはだかった、そんな感じだった。


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・刑法176条(強制わいせつ罪)
13歳以上の者に対し、暴行又は脅迫を用いてわいせつな行為をした者は、6月以上10年以下の懲役に処する。

・刑事訴訟法第317条(証拠裁判主義)
事実の認定は、証拠による。


 裁判の場では、どんなに「言葉が出ませんでした」と訴えても、「何で叫ばなかったのか」「助けを呼ぶことぐらいできたでしょう」という反対尋問を説得的に封じることは不可能だと思います。また、どんなに「動けませんでした」「力が入りませんでした」と訴えても、「何で逃げられなかったのか」「その気になればいくらでも逃げられたでしょう」という反対尋問に適切に反論することも難しいと思います。

 性犯罪の二次的被害については、私も法律学の文献によって学問的な知識は得ていましたが、その中では法律学のパラダイム自体の限界に気付かされることはありませんでした。二次的被害は周囲の無理解から生じるものであり、周囲の正しい理解により二次的被害は防止できるという前提に立てば、残されるのは技術論・方法論だけとなります。そして、法律学のパラダイムからスタートする技術論・方法論は、法廷での反対尋問に答えられないところの言葉に価値を置くことは体系的に難しいと思います。

橋本治著 『「わからない」という方法』

2010-07-09 00:03:53 | 読書感想文
p.22~
 「どこかに“正解”はあるはずだ」という確信は動かぬまま、理論から理論へと走って、理論を漁ることは流行となり、流行は思想となる。やがては、なにがなんだかわからない“混迷の時代”となって、そこに訪れるのが、「正解である可能性を含んでいる(はずの)情報をキャッチしなければならない」という、情報社会である。
 どこかに「正解」はあるはずなのだから、それを教えてくれる「情報」を捕まえなければならない――そのような思い込みがあって、20世紀末の情報社会は生まれるのだが、それがどれほど役に立つものかはわからない。しかし、「“正解”につながる(はずの)情報を仕入れ続けなければ脱落者になってしまう」という思い込みが、一方にはある。だから、それをし続けなければならない。それをし続けることによって得ることができるのは、「自分もまた“正解はどこかにある”と信じ込んでいる20世紀人の1人である」という一体感だけである。

p.231~
 10代の頃に見た映画をもう一度30代になって見直して、私は、「そういや、昔の映画評論家の言っていた“映画史に残る名作”ってたいしたことなかったな」とも思った。「昔見た映画を、“いい”と思った記憶だけで反芻だけしていると、それが“古くなる”ということに気がつけなくなるのか」と思ったのである。10代の頃の記憶は記憶として、それがその後になってもまだ「感動」として通用するものかどうかはわからない。10代の頃にはよくわからなかったものが、その後になって「わかる」というのは、十分にありえる。
 話は映画に限らない。本だって同じである。しかし、そのことがあまり理解されないのは、人が「若い時の記憶」だけを頼りにしてうっかり生きてしまうからである。もう一度読み直せばいいものを、その「感動の記憶」が健在であれば、人は「読み直して点検しよう」などという気にはならない。そうして、時代からずれて行くのである。


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 私は法学部の大学院で、「法律の世界には正解はない」ということを学んできました。そして、正解のないものについては、「自分の頭で考えろ」と言われてきました。さらには、自分の頭で考えた結論を正直に述べると、教授から「それは間違っている」と言われて、頭から否定されたという覚えがあります。
 私はその時、客観性による裏付けが必要な社会科学においては、「正解はない」という結論も過去の判例や文献の範囲内でのみ許されるのであり、文字通りの「わからない」ことは許されないのだと知りました。

 その議論は、学生のAとBの間で激しく盛り上がっていました。Aは、この事例においては殺人罪が成立するのだと主張して譲りませんでした。過去の文献や判例に照らしてみても、殺人罪が成立しないわけがない。他方、Bも、この事例においては殺人罪は成立しないと主張して一歩も引きませんでした。どの文献や判例を読めば、殺人罪が成立するなどという結論が出てくるのか。
 AとBの意見の違いがどこから生じるのか、教授から意見を求められた私は、思わず言ってしまいました。「殺人罪が成立したりしなかったりするのではない。生き残った人間の側が、殺人罪を成立させたりさせなかったりしているのではないか」。私は、AからもBからも教授からも集中砲火を浴び、それ以来余計なことは言わないことにしました。

横浜市弁護士刺殺事件 容疑者逮捕

2010-07-06 00:46:53 | 時間・生死・人生
横浜弁護士会会長談話より

 当会会員の前野義広弁護士が2010(平成22)年6月2日に刺殺された事件について、昨日、被疑者が自ら警察に出頭し、逮捕された。
 当会は、事件当日の会長談話及び同月10日の常議員会決議において、捜査機関に対して厳正かつ迅速な捜査と真相の徹底究明を強く求めていたところであるが、被疑者が逮捕され、この事件が真相解明に向けて事態が進展したことについて、この間捜査に尽力された関係機関に対し感謝の意を表するものである。(中略)

 紛争解決の過程において、自らの主張を暴力という犯罪行為によって実現しようとすることは、社会正義の実現と基本的人権擁護を使命とする我々弁護士の業務に対する重大な挑戦であり、断じて許されるものではない。このような手法が許容されるならば、法というルールによって紛争を解決するというわが国の最も基本的な仕組み自体がその存立の基盤を失ってしまうのである。
 当会は、改めて、亡くなった前野弁護士及びご遺族に対し、哀悼の意を捧げるとともに、今後、捜査や裁判が適正かつ迅速に行われ、早期に真相が究明されることを強く望むものである。また、弁護士の業務を暴力、脅迫等の手段によって妨害する行為に関して、その対策に一層取り組むとともに、そのような行為に対して一歩も引くことなく、毅然と対処する覚悟であることを改めて宣明する。


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 全国の弁護士会の声明や会長談話はホームページでいつでも読めますが、この事件に関する会長談話は、読んでいるだけで疲れます。「遺族は被害感情をむき出しにして厳罰を叫ぶものだ」という決めつけの思考パターンが、まさに裏側から鏡に映るように示されており、「語るに落ちる」とはこのことだろうとも思います。

 「厳正かつ迅速な捜査」「真相の徹底究明」「暴力という犯罪行為・・・断じて許されるものではない」といったくだりは、被害者が弁護士であることを知らなければ、とても弁護士会の主張とは思えないものです。厳正な捜査は冤罪の温床であり、いかなる理由があろうと厳罰は好ましくなく、犯罪者の更生と社会復帰と立ち直りこそが重要であるとの通常のスタンスとは、見事に正反対の議論が展開されています。
 平川隆則容疑者は「殺意はなかった」と供述しているそうですから、弁護団は傷害致死罪の成立を主張しなければならないのであって、弁護士にとっては「刺殺」という表現を用いるのも不適当でしょう。

 これまで、全国の弁護士会は、一貫して犯罪被害者の裁判参加に反対を唱えてきました。それは、感情的な人間の怒りや興奮によって、冷静であるべき手続きの公正さが失われるとの理由からです。そして、今回、弁護士会が被害者の立場に立たされると、顔を真っ赤にして怒っているところが鏡に映ってしまいました。弁護士バッジが屁とも思われなかったという恐怖の前には、犯人への赦しや寛容の精神などあり得ないようです。
 人間の殺意という底知れぬ実存の深淵につき、単に「弁護士業務への妨害」「弁護士業務に対する重大な挑戦」と捉えて拳を振り上げるならば、すべては正義となるに決まっています。そして、「被害者遺族は感情をむき出しにして厳罰を叫ぶものだ」という理論も、このような善悪二元論のフィルターを通してみれば、全くその通りだと言うしかありません。

 前野義広弁護士の父親(81)は、「犯人が逮捕されても息子が帰ってくるわけではありませんので、私たちの悲しみは変わりません。日に日に悲しみが増すばかりです」と述べていました。弁護士会の「毅然たる覚悟」と比べると、残酷なほどの言葉の重さの違いを感じます。「生きてさえいれば」という思いに比べれば、「わが国の最も基本的な仕組み自体の存立の基盤」など吹けば飛ぶようなものでしょう。
 私が前野弁護士の遺族であれば、一生懸命法律の勉強などしなければよかった、司法試験なんか落ちればよかったと悔い、それを事前に見抜くことができなかった自分を生涯責め続けるだろうと思います。そして、人の命が奪われたことではなく弁護士バッジが軽視されたことに激怒し、誰が殺されても一言一句同じ声明を出すような団体からは、哀悼の意など捧げて欲しくないと感じるだろうと思います。

中島義道著 『人生に生きる価値はない』

2010-07-04 23:57:40 | 読書感想文
p.58~

 レヴィナスについては、(慶応大学の)斎藤慶典さんや(東京大学の)熊野純彦さんなど、信頼できる人の翻訳書や解説書が次々に出て、次第にわかってきた。

 私は他者の「顔」という概念がわからなかった。他者に対する「無限の責任」という概念がわからなかった。未来は他者で「ある」という等式もわからなかった。斎藤さんの情熱的な解説書を読んでも、熊野さんの叙情的な解説書を読んでも。だが、最近のことであるが、『全体性と無限』の中で「他者とは同一化してはならないもの」という文章に出会って、一挙にわかった。「他者を理解する暴力」という自分がかねがね考えていたことに重ねて「ああ、そうなんだ」と腹の底からわかった。

 「こちらから」一方的に理解することによって同一化を図ってはならないこと、それは傲慢以外の何ものでもないこと、むしろ他者の絶対的隔絶を尊重すること、すべてを「向こうから」見直すこと、彼が倫理学という名のもとに何を目指していたのかが、自分なりにわかった。すると、どの文章も謎が解けていくようにするするとわかっていったのである。


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 私はこれまで、修復的司法の考え方に対し、しばしば言いようのない違和感を覚えてきました。癒されるような悲しみは本当の悲しみではなく、本当の悲しみは死ぬまで癒されないと思うからです。もちろん、「立ち直るな」と求めることは善意ではありませんが、「立ち直れ」と求めることの背後に迷いがなければ、それは善意の押し売りになるとも感じます。もともと、支援・援助・救済という人間の行為には、それが自己目的でなければ政治的な意図が働き、かといって自己目的化すれば偽善であるというジレンマが付きまとうのだと思います。

 支援される者が、「最終的には立ち直らなければならない」との要求に追われるのであれば、それは修復的司法が「他者を理解する暴力」であることが示されるように思います。ここで、この暴力から逃れる道があるとすれば、それは「悲しみは死ぬまで癒されない」「一生立ち直ることなどできない」という逆の要求を突きつけることになり、修復的司法の不可能を示すことになります。

 もちろん、支援される側においても、「支援者は自分のことを『立ち直りに向かっている』と思っている」という形で一方的に理解しており、これも単独で見れば「他者を理解する暴力」でしょう。しかしながら、支援・援助・救済という行為の力関係において、支援される側には暴力を振るう権利が奪われているように感じます。仮説の検証を要する社会科学は、他者の絶対的隔絶を尊重すべき場面には不向きであると思います。

入不二基義著 『ウィトゲンシュタイン ― 「私」は消去できるか』

2010-07-03 00:04:25 | 読書感想文
p.43~

 <私=私の世界=世界=生>という等式が成立するような「私」とは、もちろん世界の内の一人物ではないけれでも、世界の外から世界を眺めたり、コントロールしたりできる超越的な神さまのような存在者でもない。「私」は、世界の内にいるのでもなく外にいるのでもなくて、世界とそして生とぴったりと1つに重なっている。つまり、「私」とは、世界が「この世界(ただ1つしかない世界)」というあり方で存在し、生が1回しかないという仕方で生きられることそのものなのであって、それと別の独立した何ものかではない。


p.75~
 
 直接経験は、対象化されたフィルムの1コマではなく、現に見えているスクリーンの映像に相当する。つまり、直接経験は、私の経験・あなたの経験・彼の経験のうちの1つとしての「私の経験」ではなく、2人称・3人称の対比しえない「私の経験」である。あるいは、直接経験は、過去の経験・現在の経験・未来の経験のうちの1つとしての「現在の経験」ではなく、「絶対的な現在の経験」である。つまり、直接経験とは、<それがすべてでありそれしかないような>経験のことであり、その意味で、すぐれて「独我論的な経験」なのである。


p.99~

 ふつうはこう考える。まず「定義」があり、それに従って「判断」が下される。まず「測定方法」が定まり、それによって「測定結果」が導かれる。すなわち、「規則(定義、測定方法)」が定まることが先であり、「規則適用(判断、測定結果)」は、その後でこそ成立しうるものである。これが当たり前の「論理」のように思える。しかしウィトゲンシュタインは、両者の関係に対して逆転した見方を導入する。つまり、「規則適用(判断、測定結果)」が一致して恒常性があるからこそ、「規則(定義、測定方法)」が成り立つのだという<見方の変更>である。


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 客観的な世界の内側に生きる者は、他者の経験を自己の教訓として学び、一般論から個別論を導きつつ、世間的な幸福を追求するのだと思います。逆に、客観的な世界の外側に生きる者は、自己の経験を他者への教訓として語り、個別論を一般化しつつ、やはり世間的な幸福を追求するのだと思います。

 これらに対して、世界の内にも外にも生きていない者は、自己と他者との断絶を悟り、世間的な幸福の無意味さを悟るのだと思います。ウィトゲンシュタインの独我論は、具体的な社会のシステム構築には何の役にも立ちませんし、崩壊させる力もないでしょう。しかし、人間の数だけ独我論が成立するならば、世間的な幸・不幸の問題は確かに解消されるはずです。

森本浩一著 『デイヴィドソン ― 「言語」なんて存在するのだろうか』

2010-07-01 23:24:05 | 読書感想文
p.53~

 「話し手がどの文を真と見なすかということしか、われわれにはわかっておらず、しかも彼の言語とわれわれの言語が同じとは考えられない場合、われわれは、話し手の信念に関してひじょうに多くのことを知っているか仮定するかしない限り、解釈の第一歩さえ踏みだすことができない。しかし信念に関して知ることができるのは、ことばを解釈できる場合だけであるから、出発点における唯一の可能性は、信念に関する幅広い一致を仮定することである。

 (中略)寛容はひとつの選択肢といったものでなく、使いものになる理論を得るための条件である。それゆえ、それを受け入れればとんでもない間違いを犯すことになるかもしれないと考えても意味はない。真であると見なされた多くの文どうしの体系的な連関をつくり上げることに成功しないうちは、間違いを犯すこともありえないのである。寛容はわれわれに強いられている。他者を理解したいのであれば、好むと好まざるとに関わらず、われわれは、たいていの事柄において他者は正しいと考えなければならない。」

 寛容という語にまどわされてはいけません。これは相手を善意に解釈することとはまったく無関係です。寛容の原理は、真理条件を同定してゆくプロセスが経験的な実質性を持つ限りにおいて、解釈はそのようにならざるをえないという基本的な制約を述べたものです。それは選択できる態度ではなく、「強いられている」ものなのです。

 デイヴィドソンの解釈の構図では、第三者的な視点、つまり自分の信念と他者の信念を比較するような超越的視点は排除されています。相手の言語を通じて信念を理解し合っている話し手と聞き手がいるだけです。他者の理解は、聞き手の視点からの解釈を通じてしか成立しません。解釈が話し手の意図に「一致」する、つまり解釈が「正しい」ということも、第三者的な(言語共同体的な)視点からではなく、解釈者自身が構築した相手の「意味の理論」を参照する限りで言うことができるだけです。


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 寛容の原理が、選択できずに強いられているのであれば、コミュニケーションの方法論(特にビジネスや人付き合いの場面)の多くは無意味だと思います。人々の会話の中で生じる誤解の根本原因が、真理条件を同定してゆくプロセスが経験的な実質性を持つことにあるならば、誤解など解決しようがないからです。人は精神的に余裕がなくなって追い込まれれば、「それはそっちの事情でしょう」「あなたにとっては大問題でしょうが私には関係ありません」と言わざるを得なくなります。

 言語共同体的な視点が無効であることは、日本語を話す者同士の間でも言語をめぐる擦れ違いが絶えないことにおいて明白だと思います。「正しい」をめぐる論争とは、意見の正しさに止まらず、「私は超越的視点において『正しさ』を知っているがあなたは知らない」とお互いに言い合う状況ですから、決着がつくはずもありません。
 他者の理解が、聞き手の視点からの解釈を通じてしか成立しないのであれば、聞き手が「この人には解ってもらえない」と諦めて反論しなければ、そこで誤解は解けないまま解消します。他方で、人が個別の経験を語ったとしても、そこに普遍性を抉り出す力があれば、誤解は起きにくいと思います。