犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

池田晶子・陸田真志著 『死と生きる・獄中哲学対話』 「陸田真志 10通目の手紙」より

2010-07-28 23:58:42 | 読書感想文
「陸田真志 10通目の手紙」より

p.149~153より抜粋

 今、この手紙を書いている時にも私の中にはやはり「怒り」があります。ただ以前と少し違うのは、それが私個人の怒りだけではなく、その怒りが(正確には悲しみが)、私が殺した被害者を含む全ての精神にとってのそれとして感じられるのです。いつから理性的な事は、何か人間にとって「現実的」なものとは違うものであるかのように言われだしたのでしょうか。いつから「難解」である事が、それを理解できない人間の頭の悪さではなく、その書物なり考えなりの「悪さ」になってしまったのでしょうか。

 今も起こる多くの殺人事件などを報道で見る度、「これも俺の罪だ」と痛切に思うのです。これらの考えを増やし被害者を殺したのは、そうやって人を殺した者の考えを正さずにそのままにしていた俺の罪でもある、全ての人の罪は俺の(そして皆の)罪だ。売春を続ける女達についても、彼女達の考えを正そうともせず、それを経済的には当然の事、あまつさえ賢い事とまで言ってた私の為にその生き方を選んだ者は何百人居るのだろう。この「春を売る」という言葉もどこから湧いて出たのか知りませんが、「売身」ではダメなのでしょうか。

 宗教団体は、一体何の為にあるのでしょうか。自分の信者、自分の教団が増え、繁栄すればよいのでしょうか。そうやって自分の保身ばかり気にする教祖さえあがめられたら、よいというのでしょうか。そんな人間に神(仏)を語れるはずがないと思うのです。その考えを広めるのが民衆の為なら、その為に金銭が必要なら、その立派な建物や仏像や広大な土地や美しい衣装を売り払って、それを布教に使えと私は思うのです。でも考えてみれば、やはり私にも責任はあるのです。その事に気付く可能性があったのに、それをしなかったのですから。


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 平成20年6月17日、陸田真志元死刑囚や宮崎勤元死刑囚に死刑が執行されてから2年以上が経ちました。千葉法相下で初めての今回の死刑執行に際し、同法相は「国民的な議論の契機にしたい」と語り、新聞やテレビでも専門家が議論を戦わせていました。そして、熱い議論の裏面を示すかのように、陸田真志元死刑囚や宮崎勤元死刑囚の存在はほとんど忘れ去られていたようです。

 死刑制度の存置・廃止で熱くなる死刑存廃論は、執行されてしまった死刑囚のことなど忘れ、いつまでも覚えている暇はないという特徴を有するように思います。それは、人の生死をイデオロギー的に論じることによって、実際に論じているのは人の生死ではないということです。死刑廃止論が殺された被害者の存在を忘れることと、刑を執行された死刑囚の存在を忘れることには深い共通点があると感じます。