犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

鈴木謙介著 『サブカル・ニッポンの新自由主義』

2010-07-14 23:44:00 | 読書感想文
p.9~
 本書で私は、新自由主義を政治体制や社会的イデオロギーとしてのみならず、私たちが共有した価値判断のモードとして分析するという立場を採る。その上で、現在生じている「新自由主義批判」なるものも、よくよく見てみれば、その主張が実は新自由主義的であるという事態が散見される、ということも明らかにしたい。それほどまでに新自由主義的な価値判断のモードは、私たちの中に深く入り込んでいる。
 特にその代表的な例として取り上げられるのが「既得権批判」のロジックだ。既得権批判とは、私の現在の不遇な状況は、どこかで不当に利益を抱え込んで手放さない既得権者がいるからで、彼らを取り除けば問題は解決する、というタイプの思考法を指す。それは、90年代には郵政族などの官僚や、特定の業界の大企業のことを意味していたが、現在では、企業に勤める正社員、大学教員、果ては「普通に暮らす人々」一般まで、その対象を拡大しつつある。

p.73~
 もう後戻りはできない、とよく言われる。いまこの時代に適応しなければ未来はないのだと。それは若者だけに向けられるのではない。社会人になっても、自己鍛錬と最新の動向へのキャッチアップは常に求められる。そしてそれはいつも、「かつてあった暖かく甘い時代への郷愁を断ち切れ」というメッセージとともに、私たちに向けられる。
 しかし、そのことはどこかで変化すること、以前と違う状態であることを自己目的化してしまう。「『変わらなきゃ』も変わらなきゃ」というキャッチコピーがかつてあったが、私たちはいつの間にか、カイカク、カイゼンと言い続けているうちに、目標なき「差異化のための変革」のサイクルに取り込まれつつあるのかも知れない。


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 選挙の前後になると、「投票に行かなかった人間が政治を批判する資格はない」という論調が目立ちますが、ねじれ国会の批判に関しては、別の見方ができると思います。
 昨年の衆議院議員選挙で民主党に投票し、今年の参議院議員選挙で自民党に投票した人に比べれば、どちらも投票に行かなかった人のほうが、ねじれ国会を批判する資格があるように思われます。鈴木氏の分析を読んで、ふと考えつきました。