犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

森本浩一著 『デイヴィドソン ― 「言語」なんて存在するのだろうか』

2010-07-01 23:24:05 | 読書感想文
p.53~

 「話し手がどの文を真と見なすかということしか、われわれにはわかっておらず、しかも彼の言語とわれわれの言語が同じとは考えられない場合、われわれは、話し手の信念に関してひじょうに多くのことを知っているか仮定するかしない限り、解釈の第一歩さえ踏みだすことができない。しかし信念に関して知ることができるのは、ことばを解釈できる場合だけであるから、出発点における唯一の可能性は、信念に関する幅広い一致を仮定することである。

 (中略)寛容はひとつの選択肢といったものでなく、使いものになる理論を得るための条件である。それゆえ、それを受け入れればとんでもない間違いを犯すことになるかもしれないと考えても意味はない。真であると見なされた多くの文どうしの体系的な連関をつくり上げることに成功しないうちは、間違いを犯すこともありえないのである。寛容はわれわれに強いられている。他者を理解したいのであれば、好むと好まざるとに関わらず、われわれは、たいていの事柄において他者は正しいと考えなければならない。」

 寛容という語にまどわされてはいけません。これは相手を善意に解釈することとはまったく無関係です。寛容の原理は、真理条件を同定してゆくプロセスが経験的な実質性を持つ限りにおいて、解釈はそのようにならざるをえないという基本的な制約を述べたものです。それは選択できる態度ではなく、「強いられている」ものなのです。

 デイヴィドソンの解釈の構図では、第三者的な視点、つまり自分の信念と他者の信念を比較するような超越的視点は排除されています。相手の言語を通じて信念を理解し合っている話し手と聞き手がいるだけです。他者の理解は、聞き手の視点からの解釈を通じてしか成立しません。解釈が話し手の意図に「一致」する、つまり解釈が「正しい」ということも、第三者的な(言語共同体的な)視点からではなく、解釈者自身が構築した相手の「意味の理論」を参照する限りで言うことができるだけです。


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 寛容の原理が、選択できずに強いられているのであれば、コミュニケーションの方法論(特にビジネスや人付き合いの場面)の多くは無意味だと思います。人々の会話の中で生じる誤解の根本原因が、真理条件を同定してゆくプロセスが経験的な実質性を持つことにあるならば、誤解など解決しようがないからです。人は精神的に余裕がなくなって追い込まれれば、「それはそっちの事情でしょう」「あなたにとっては大問題でしょうが私には関係ありません」と言わざるを得なくなります。

 言語共同体的な視点が無効であることは、日本語を話す者同士の間でも言語をめぐる擦れ違いが絶えないことにおいて明白だと思います。「正しい」をめぐる論争とは、意見の正しさに止まらず、「私は超越的視点において『正しさ』を知っているがあなたは知らない」とお互いに言い合う状況ですから、決着がつくはずもありません。
 他者の理解が、聞き手の視点からの解釈を通じてしか成立しないのであれば、聞き手が「この人には解ってもらえない」と諦めて反論しなければ、そこで誤解は解けないまま解消します。他方で、人が個別の経験を語ったとしても、そこに普遍性を抉り出す力があれば、誤解は起きにくいと思います。