犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

外山滋比古著 『思考の整理学』 Ⅳ章より

2010-05-08 00:11:20 | 読書感想文
p.124~

 時間が経てば、たとえ微少でも、風化がおこる。細部が欠落して、新しい性格をおびるようになる――これが古典化の過程である。原稿のときとまったく同じ意味をもったままで古典になったという作品は、古今東西、かつてなかったはずである。かならず、時のふるいにかけられて、落ちるものは落ちて行く。
 “時の試練”とは、時間のもつ風化作用をくぐってくるということである。風化作用は言いかえると、忘却にほかならない。古典は読者の忘却の層をくぐり抜けたときに生れる。作者自らが古典を創り出すことはできない。

 忘却の濾過槽をくぐっているうちに、どこかへ消えてなくなってしまうものがおびただしい。ほとんどがそういう運命にある。きわめて少数のものだけが、試練に耐えて、古典として再生する。持続的な価値をもつには、この忘却のふるいはどうしても避けて通ることのできない関所である。
 この関所は、5年や10年という新しいものには作用しない。30年、50年すると、はじめてその威力を発揮する。放っておいても50年たってみれば、木は浮び、石は沈むようになっている。

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 社会の流れがますます早くなり、風化を防ぐ個人の努力は空しく消え、雑多な情報に覆い尽くされているのが現代社会の状況だと思います。しかしながら、時間が風化作用を有するのではなく、人が風化によって時間の流れを認識するのであれば、これは情報の量に関わるものではないとも感じられます。

 古典が世の中のどこかでいつの間にか読み継がれており、恐らくこれから出版される新刊のほとんどを予め追い抜いているのであれば、これは風化に抗った結果ではないと思われます。後世に自分の意志をそのまま正確を伝えたいという目的が逆効果を生むのは皮肉です。

『「少年A」 この子を生んで…』

2010-05-05 00:06:17 | 読書感想文
p.32~
 「Aは厳しく躾けられ、親の愛に飢えていた」とジャーナリストや心理学者、裁判官の方々は、口を揃えて言われましたが、私はむしろ、息子に構いすぎ甘かったために、あの子をあんなにしたのかもしれないと、今は正直思っています。あの子にあれ以上、どう接すればよかったのか? 親としての子供への愛情とは一体、何なのか? どういう具合に愛情を伝えればよかったのか? 
 私は何もかも分からなくなりました。自信も消し飛んでしまい、混乱し、毎日毎日、自分が情けなく悔しく、どこでどうあの子の育て方を間違えたのか、とそのことばかり自問自答を繰り返しているばかりです。

p.107~
 Aは自分の息子です。あんな凶悪事件を起こしても、怖いとも思わないし、憎いとも思えません。見捨てようとも思いません。でも、息子がやった行為を考えると、被害者の方々には死んでお詫びをするしか方法がないのではないか、その方がいいのではないか、と正直何度も思い悩むこともあります。
 息子は生きていますが、被害者の方々の掛けがえのない命は永遠に戻ってきません。やり切れない、永遠に変わることのない事実があります。私が死んで被害者の方々の気持ちが少しでも和らぐのであれば、いつでも死にたい。卑怯かもしれません。でも、お子様の命は何をしてでも償って償い切れるものではありません。今でもふっと死にたいと思う瞬間があります。

P.229~
 私が母親としてあまりに鈍かったのかもしれません。それとも、あの子は本当に二重人格の殺人鬼だったのでしょうか。私には分かりません。でも、一瞬でもAに疑いを感じたことはありませんでした。あれだけ側にいながら、事件を引き起こしているとは、想像もつきませんでした。愚かな親ですが、私はAが逮捕されて会えない間じゅうずっと、最後までAを信じてやりたかった。
 子供にそんな酷いことが出来るわけがない。いい子ではないけれど、百パーセント信頼し、愛していた息子を疑うことは、どうしてもできませんでした。私たちはAを止めることが、なぜできなかったのか。悔やんでも悔やみきれません。


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 「被害者遺族」と「加害者家族」はどちらがより苦しいのかを比較することは無意味だと思います。人間はそれぞれ一度きりの人生を送っている以上、例えばある人にとっては会社の大事な書類を紛失したことが、またある人にとっては重要な仕事のメールやFAXの送信先を間違えたことが現に死に至る苦しみとなるのであり、この瞬間に他者との比較の概念が入る余地はないからです。
 これに対して、苦しみの「量」「大きさ」ではなく、「質」「方向性」を比較することはなお可能だと思います。私は、被害者遺族である土師守氏の著書と、加害者家族である少年Aの両親の著書を読み、全く学問的な裏付けのない自己流ですが、以下のような感想を持ちました。

 加害者家族も被害者遺族も、その瞬間から「なぜ」という問いが絶えず湧き上がり、自問自答が続く点は同じだと感じます。但し、その問いの質は全く違うように思われました。
 加害者家族の問いは、「なぜ気がつかなかったのか」「なぜ防げなかったのか」という点に収束し、究極的には過去に向かって何らかの原因を求めて苦しむという形にならざるを得ないようです。これは、社会学的な問いの形態であり、全人生を視野に入れていながらも、特定の部分に対して磁力が働く分析的な問いであると感じられます。
 これに対し、被害者遺族の問いは、「なぜ彼はここに居ないのか」「なぜ二度と会うことができないのか」という点に収束し、不可能を不可能を知った上で問い続け、苦しむという形にならざるを得ないように思われます。これは、純粋に哲学的な問いの形態であり、問う者の全人生を超えて、全宇宙・全存在に拡散してしまうような、問いそのものの所在が確定できない問いであると感じます。

 言葉の意味として先に知られている何物かを述べるための単語として、加害者家族と被害者遺族については差があることにも気がつきました。
 加害者家族については、「身の置き所がない」「胸をえぐられる」「信じたくない」などの表現が妥当し、衝動が内側に集中しているように思われました。他方、被害者遺族については、「足元が崩れる」「胸が張り裂けそう」「受け入れられない」などの表現があてはまり、衝動が外側に拡散してるように思われました。
 また、土師氏の著書で本村洋氏が述べていた「怒り、憎しみ、悲しみ、絶望……そういった言葉では言い表わす事の出来ない情状」は、加害者家族に対しては全くあてはまらないようです。この点は、加害者本人の反省・謝罪・更生が問いに対する究極的な解答となり得る加害者家族と、そうはなり得ない被害者遺族との絶望的な差であると感じました。さらに、被害者遺族が解答として加害者への厳罰を述べるや否や、「それは根本的な解決にはならない」という反論までついてくるという執拗さです。

 A少年の両親は、A少年には生きている資格がないと悩みながらも、生きて償いをさせたいとの苦悩を繰り返し記しています。これは、昨今の児童虐待で我が子を殺す親と比べてみれば明らかに倫理的であり、人の親として自己欺瞞のない心情と思います。
 他方、A少年の両親は、被害者や遺族に対しては繰り返し謝罪の念を書いていますが、ここには偽らざる自責の念と表裏一体に、「謝罪の念を示しておかなければならない」という意向が表れていることにも気がつきます。また、A少年の両親が被害者や遺族へのお詫びの言葉を何回も述べているのは、これが自発的な欲求ではなく、無しで済ませられるのならば済ませたいという本心が表れているように思われます。
 加害者や家族が、被害者や遺族への謝罪の言葉を全く述べないことは絶望的だと感じます。しかしながら、謝罪の言葉が述べられたとしても、そこに意識的な保身や計算を超えて、人間存在に避けがたく付きまとう心情としての反発の念や不当感が入り込んでいる瞬間を看破してしまうことは、さらに絶望的だと感じます。

土師守著 『淳』

2010-05-03 00:05:17 | 読書感想文
p.101~
 私は喪主として、「淳のお骨」が出てくるのを1人で待ちました。しかし、さすがに「淳のお骨」が出てきた時、その変わり果てた淳を見て、私は声を上げて泣いてしまいました。もう本当にこの世には淳の肉体はなくなってしまったという思いが、私の心を打ちのめしてしまいました。
 その後、私たち家族は、警察の車で家まで送ってもらいました。マンションに着くと、数人のマスコミ関係者が待ち構えており、私たち3人の写真を撮っていきました。私たちは、それぞれお骨や位牌、遺影を持っていたので、顔を隠すこともできませんでした。私たちは、淳のお骨と一緒に家に入りました。淳がどれほど家に帰ってきたかっただろうかと思うと、切なさで胸が張り裂けそうでした。私たちは、淳の遺影に向かって、「お帰りなさい。やっと帰ってこれたね」と、話しかけるのが精一杯でした。

p.135~
 被疑者のA少年が逮捕され、取り調べは進んでいきました。新しい事実が明らかになるにつれて、その犯行の異常さが次々と新聞やテレビ、雑誌などで紹介されていきました。しかし、そこでマスコミを支配していた空気が、変わってきたように思われたのです。私にはA少年に“同情”しはじめたかのように感じられたのです。それはA少年が逮捕された時から心配していたことでした。
 少年はなぜあの犯罪に走ったのか。少年の心の闇を理解しよう。学校教育が、少年をあそこまで追い込んだ。少年を更生させるには、どうしたらいいか。その主張や意見は、問題は少年そのものにあったのではなく、少年を取り巻く学校や社会にあった、というものでした。それはそのまま、少年への「同情」へと流されていきます。「A少年は、歪んだ教育、そして病んだ社会の被害者なのです」。一見、耳に心地よいこの意見は、しかし、私たち被害者にとって耐えられるものではありませんでした。

P.254~ 本村洋氏の解説
 現行少年法が絶対正義であり万能であるわけがない。また、法学者や実務家が常に正しい理解をしているわけでもなく、世論の高まりに対して「正しい理解に基づかない」などと民意を一蹴するのは、司法に携わる方々の怠慢であると私は考えている。
 不幸にして少年事件に捲き込まれた被害者や遺族が、怒り、憎しみ、悲しみ、絶望……そういった言葉では言い表わす事の出来ない情状下で諸々の感情を心の奥底に捩じ込み、社会規範を守り、法を信頼する気持ちを取り戻す為に、少年法を通して「人権とは何か」、「少年の保護更正とは何か」、「罪と罰とは何か」などを懸命に考え、社会に訴える声に聞く耳を持たない人間に司法に携わる資格などない。


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 「少年はなぜあの犯罪に走ったのか」という問いの立て方は、少年を取り巻く学校や社会までを視野に入れる包括的な問いであり、論理的には被害者もその社会の中に含まれます。従って、理屈の上では、その問いを追って行けば被害者が求めている答えも導かれなければなりません。しかし、この問いの立て方は、「なぜ被害者は他でもないその人だったのか」という問いを完全に脱落させ、被害者をさらに苦しめます。しかも、犯罪の原因をさらに奥深く追究し、学校・社会・国家・時代といった全称的な概念を持ち出すほど、その中から被害者は抜け落ちることになります。

 「A少年は病んだ社会の被害者である」という主張は、被害者とは同情票を集めることのできる悲劇のヒーロー・ヒロインの地位にあり、加害者ではなく被害者の側に絶対的な正義があることを前提としているように思われます。悲劇のヒーロー・ヒロインとは、人々の同情の視線を集めて悦に入り、被害者の地位に自ら留まり、心地よく自分に酔う余裕がある者のことです。この意味での被害者は、「被害者意識」「被害妄想」といった言い回しにも表れています。そして、加害者こそ被害者であるという文法の混乱は、本来の加害者に対する被害者の地位を捉えることを困難にしているように感じられます。本来の被害者とは、二度と心の底から笑うこともなく、笑いたくもなく、被害者の地位から抜け出したくても一生這い上がれない地獄であると想像します。

 A少年が社会環境・学校教育・家庭環境によって必然的に犯行に至った因果関係は、評論家・ジャーナリストによって丁寧に分析され、A少年は「病んだ社会の被害者」であることが裏付けられていました。すなわち、A少年にが被害者になったことの必然性が、社会全体の包括的な視点から社会科学的に論証されます。これに対して、土師守さんが我が子の骨を拾わなければならなかったことの因果関係については、社会科学的な論証は不可能でした。A少年が被害者であることについての必然性が立証されればされるほど、土師さんの側には偶然性(運が悪かっただけ)という結論が押し付けられるのみです。このような偶然性は、ある日突然、不特定の人間を本人の選択の余地もなくその立場に投げ込み、しかも未来志向的な希望を厳しく拒むという残酷なものです。

 事件後からかなりの長きにわたり、A少年の年齢である「14歳」や、犯行声明文に書かれていた「透明な存在」をキーワードとして、学識経験者らが激論を戦わせていたように記憶しています。事件の再発防止という将来的な政策論からすれば、土師さんの個人的な苦悩などは学問的興味の対象とならず、A少年の一挙手一投足の分析のほうに有識者が殺到したのもあまりに当然のことでした。あれから13年が経ち、現在の世相とともに当時の激論を振り返ってみると、ほとんどが「議論のための議論」であったように思えて、虚しい気持ちが拭えません。現在の「14歳」は事件の当時には1歳であったという現実に正面から対抗できるのは、その当時11歳であった淳君は13年経っても24歳になっていないという現実だけだと感じます。

曽野綾子著 『太郎物語・高校編』

2010-05-01 23:53:03 | 読書感想文
p.118~
 人間の羞恥というものは、自分とは異なった他人の存在を認めているという証拠で、そこには、潜在的に価値の混乱があるということを承認しているからこそ、自分の判断に自信が持てなくてはにかむのである。しかしこのはにかみというのは大変大切なもので、逆に自分の決定に、疑いもなければ、不安も覚えない、という荒っぽい独善的な人間は決してはにかむことがない。

p.183~
 しかし、それにしても、この人生をやりなおせないということは、何という不合理であろう。いったい世の中の人たちは、何で、自分の職業や進路を決めたのか。「戦争だって、死んだ人と生き残った人とは運だよな。総理大臣になるかならないかだって運だよな。自動車に轢かれるか轢かれないかだって運だよな」。太郎は本当にそうだなあ、とは思うのだが、さりとて、万事、隅から隅まで運だと思うわけにも行かず、少しばかり努力をしてみては、あまりうまい結果がでないと「やっぱり運だよなあ」と思うことにしているのである。
 そして太郎はそう思う時、自分は骨の髄まで、「光栄ある一般大衆」の1人だなあ、と思うのであった。なぜならそのようにして、絶えず現実からいささかの逃避をすること、原因と結果の筋道を、ともすればごちゃごちゃにしようとすること、それこそまさに、優しい庶民の感覚なのだと思うからであった。

p.205~
 深刻な話だなあ、と太郎は思いながらにやにやしていた。辛い話を聞く時に、反射的に不真面目になるというのは、太郎の子供の時からの習性である。深刻な話というものは、実際重大なことだから、軽率にではなく、慎重に考えてかからねばならない。とすれば、最初からそれに溺れそうになるのを防ぐために、ずるずる引き込まれないためにわざと不誠実になっておくのである。この不遜、この冷酷さ、この非情さが、男にとって必要だということを、目下のところ、太郎は信じていたいような気がしているのである。

p.303~
 太古の人間、未開社会の人間、にとって、人間を殺すことは、1つの日常茶飯事的な行為であった。藤原の兄さんは、その、或る意味では、言葉にもあらわし難い「人間的」な行為をやってのけたのだ。「人間的」というとすぐ今の人たちは、よい事だけを人間的なことだと思う。
 しかし、人間的な属性の中には、さまざまな、身の毛もよだつ、おぞましい要素も含まれているのだ。それに目を塞いで、物を言うのは決してフェアなことではない。藤原の兄さんは、まさに、その「人間的」であることの極限にほうり込まれたのだ。微かに太郎は、その立場を同情し、嫌悪し、そして羨む。自分には、まだ、何もわかっていないという虚しさが襲って来る。


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 この本は、高校のときの課題図書でした。その当時にはわからなかった部分がわかったり、わかったつもりになっていた部分がわかっていなかったとわかったり、わからない部分はやっぱりわからなかったりして、同じ本を久しぶりに読むのは面白いと思います。それと同時に、現在の自分は高校生の自分よりも確実に歳を取っているはずですが、そのような実感が湧かないのも正直なところです。恐らく、本の中の高校生の太郎が全く歳を取らないことが可能であれば、本を読む人間はそれに従わざるを得ないのでしょう。

 私は高校の時にもまともな感想文が書けませんでしたが、現在でもこの本に関してはまともな感想文は書けません。それは、主人公の目線に立って一緒に思考してしまうと、何らの教訓も導き出せず、感想文を書こうとすると嘘になってしまうからです。人間の真実の姿だけを疑って考えようとすることは、身も蓋もない残酷なことでしょう。私は大学に行ってから、「人間を殺すことは人間的な行為である」という物の見方を忘れ、自分には何もわかっていないという虚しさに襲われることもなく、犯罪論・正義論を振りかざしていました。高校生の太郎よりも精神年齢は幼稚だったと思います。